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洞の鐘
「なんだって、こんな山ン中…」
化野は息を切らし、石段を昇る。
百八くらいまで数えていたがあとはもう分からなくなった。
なんて急勾配。途中に休める東屋でも作ればいいのに。
心中悪態を吐きながらも、黙々と足を運ぶ。
まぁ、境内だし。楽をする為に作るわけも無し。移動すらも修行なのだろう。
禁欲的なことだ。
上からは間口程もありそうな横にも縦にも大きな女性が軽やかに降りてくる。
もう少しよ〜ほほほほほなんて笑いやがる。
ここは観光地にもなっている山寺だ。庭のうつくしさと、国で一二を争う大きな鐘が見所。
夏の初め、まだ茹だるほどの暑さではないとはいえ、風はそよとも吹きはしない。
汗はだらだら流れ、頬を伝う。
どうせ汗をかくなら別のことがいい。化野は禁欲とは程遠い、つい昨日のことを思った。
暮れ方、飛脚が来た。
そのとき化野はちょうど庭木に水をやっていた。
桜の苗木。山桜だ。
化野が、都にある改良された豪勢な桜よりも、
山に咲くものの方が好きだと言っていたのを、時折ここを訪れる蟲師は覚えていたらしい。
強風で煽られ倒れていたと持ってきたのだ。
化野はひどく嬉しかった。蟲師は自分の言葉を覚えていた。
いつかの春、一緒に酒を酌み交わしながら、
遠くの桜を見ていたときに呟いたような気もするが、話したかどうか自分でも定かではないのに。
化野は珍しいものが好きで、都にでたときや、やってきた行商人らからよく求めていた。
それを何処かで聞き及んだらしい。
ある日、品を卸しにその蟲師はやってきた。
「アンタが化野先生かい?」
その不遜にも取られかねない言い草。
だが、化野は気にならなかった。むしろその飾らない言葉に好感を持つ程。
思えば、初めから惚れていたのかも知れない。
このとき、すっかり日は落ちていたが、戸口でその蟲師はボンヤリ光って見えた。
何故だろう。瞬きの間、考えた。
ああ、そうか。髪も肌も白磁だ。
白い髪は日に焼けやすく、直ぐに黄色味を帯びるものだが、
この男の髪は違った。本当に白いのだ。
化野は、つい手を伸ばし梳いていた。
その感触に指先から痺れるような感覚が背筋を撫でる。
蟲師はその手を厭わず、寧ろ気持ち良さそうに目を細め化野を見つめた。
目の色が透き通る翡翠色だった。
「珍しいか…?」
化野はその言葉に我に返った。
まるで無意識だった。
魅入られたように手を伸ばし、その目を覗き込んでいた自分。
すまんっと叫び後退る。三和土に降りていた化野は上がり框に足をぶつけ尻餅を付いた。
それを見た蟲師は、ぶ。と吹き出し、
下を向き肩を震わせていたかと思うと腹を抱え、盛大に笑いだした。
蟲師との付き合いはそれからだ。
その日から直ぐに昔からの気安い間柄のように酒を酌み交わし話をしていた。
商談のときは容赦は無いがそれもわるくない。化野はこの蟲師を気に入っていた。
飛脚が運んできたものは、その蟲師からの小包みだった。
麻紐をほどき、油紙を剥がすとまた油紙。幾重にも包まれた中には
大陸の砂漠の道を通ってきたものだろう。
象牙の小箱、それと蟲師からの文があった。
――オマエにしか頼めない、と始められた文には、
日時と場所が書かれており、
その日、その場所にこの小箱を持っていってくれと云うものだった。
蓋は膠で接着したようにびくともしない。
中で蟲が蓋を閉じているとの事。
人の手で開けることは出来ないだろうが決して無理に開けようとしないでくれ。
中の蟲が煙になってしまうと書かれていた。
この小箱に百八の鐘の音を聴かせなければならない。
あとひとつだ。
そこから近い所に山寺があるだろう。オマエにはそこに行ってもらいたい。
オレは対のもう一つを持って違う寺に行っている。
同じ日時に日が沈む方角と日の昇る方角、
西と東だな、その場所で鐘を聴かせると蓋が開く筈だ。
そうすれば、この蟲はやっと自由になるんだ。
洞の鐘、そういう名が付いている。
洞窟に棲んでいて、
そのつがいは正午になると鳴きかわす。きまって正午なんだ。
日が一番高い時刻になると、澄んだ鐘のような音が遠く小さく鳴り響く。
「洞の鐘」が集まっている洞窟は様々な音程が重なり合いそれは妙なる調べらしい。
蟲が見えるものにしか聴こえないがその美しい音色に度々こうやって掴まる。
つがいを分けて箱に入れるんだ。そうして音色を楽しむ。時刻も分かるしな。
狭い所に入れられると蟲は危険が迫ったと思うのか、何故か隙間という隙間を全て塞ぐ。
それでも正午には相手を探して鳴くんだ。
百八の鐘の音というのは目安で、
それだけの数の様々な鐘の音を聴かせると蟲は仲間がいると思って安心して出てくるんだ。
いちばん良いのはこの蟲が群れで棲んでいる洞に持っていくことだがな。
如何せん異国の蟲なんだ。
これはたまたま手に入ったもの。
珍品が好きなオマエは聴こえなくとも手元に置いておきたいかも知れない。
だが、オレは開放してやりたい。
――オレに惚れているのなら頼まれてくれ。
そう締めくくられていた。化野は最後の一行を何度も読み返す。
暫らくしてから自分が息を止めていたことに気が付いた。
そうか。
言葉にされて分かった。オレはアイツに惚れていたのか。
言われてみればそうかも知れない。
いや、そうだろう。アイツがくるとやけに気持ちが浮き立つし、
居ないときはアイツのことばかり考えている。
今だってそうだ。庭木の手入れなんぞしたことも無いのに、
貰った苗木には嬉々として水をやっている。もうずっと欠かさずにだ。
化野は自分の言動を振り返る。
あの蟲師が来ると先に分かれば、部屋を片付ける。
あの蟲師が滞在しているときは、ちゃんと顔を洗う。
あの蟲師が望めば、何でもしてやりたくなる。
あの蟲師が笑えば、自分も嬉しくなる。
あの蟲師が……、
切りが無い。
こうやって思い返してみると恥ずかしいことこの上ない。
幼子でも気付く惚れっぷりだ。
化野の気持ちなぞすっかり分かっていただろうに、
蟲師はそれでも此処に立ち寄っていた。
嫌ではなかったのだろうか。そこで化野は、はたと思い当たった。
ついこの前、蟲師が来たときのあの不可解だった間のことだ。
酒を酌み交わしながら談笑し、つまみを取るとき蟲師と顔がやたらと近付いた。
すると蟲師は僅かに顔を引いたかと思うとまた直ぐに寄せ、じ、と化野を見つめた。
程よく酒が回っていたのもあったが、
化野は蟲師のきれいな緑の目を間近に見ることが嬉しくて、上機嫌でただただ見返していた。
そうすると蟲師は拍子抜けしたような表情をし寂しそうに笑う。
それがやけに気にかかり、
どした〜?おら飲め〜と絡んだ気がする。
あれは、あれだったんじゃないか…?
勿体無いことをした…
化野はそうアタマをかかえ、山寺に来たのだ。
「正午には、間に合ったか…」
大きく息を吐き、後ろを振り返る。よくぞここまで登ってきたものだ。
橇で滑り降りたら何処までいくか。ぞっとするほどの傾斜。
空が青い。白い雲が紗のようにかかっている。
眼下には家々、畑、水がきらめく水田。海原も見える。気持ちのいい見晴らしだ。
西は、あっちか。化野は遠く山並みを望む。
今頃あの何処かでアイツも腰を下ろし、真昼を待っているのだろう。
化野は茶屋で一息つきながら懐に手を入れる。大丈夫。小箱はちゃんとある。
頂には鐘を見に来た者のために茶屋があり、皆そこで思い思いの事をしている。
景色を楽しんだり、ひたすら甘味を食べていたり、会話に興じたり、囲碁を打っている者もいる。
――ん、この白玉は美味い。
今度来たときアイツにも食わせてやらにゃ。
化野は白玉を口に運び、自然にでた思いに苦笑する。
どうして文を読むまで気付けなかったのか。
アイツを思う事があまりにも日常的過ぎて特別な事だとは思いもしなかった。
こんなふうに思うのはアイツへだけだと言うのに。
墨色の作務衣を身につけた僧侶が石段を上がってきた。
剃りあげたばかりなのか坊主あたまは青々としている。息も切らしたふうもなく鐘楼にゆく。
沈むように余韻を残し響く鐘の音。
一回、二回…何度突くのか化野は知らない。
手のひらには懐の小箱を乗せ、西の空を仰ぐ。向こうでも鐘の音は響いているだろう。
ふいに風が吹き、汗ばんだ額を撫でていく。
小箱に目を落としてもそこに蟲が居るのか居ないのか化野には分からない。
だが、分からなくとも構わない。
――アイツに訊けばいい。
つぎはどんな顔をしてやってくるだろう。
吹き始めた風は西から吹いてくる。
鐘の音よりも高い音がどこかで響いた気がした。
end.
「謎の蟲名一欄」より『洞の鐘(ほらのしょう)』
モリ様・投稿
08/07/31