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四つ辻酔い
1
二、三日のうちに、そちらへ行く。
事前に連絡する事など、滅多とない。いや、何の用もなくなら、これが初めてではなかろうか。
それに思い至ったのは、いよいよあの男が住む里に入る・・・というところまで来てからだった。
立ち止まり、天を仰いだ。
台風一過の空は晴れ上がり、長くて三日だったはずの予定に二日の旅程延長を強いた天候も、今は影も形もない。
言い訳がいるな、と思った。
早くも太陽によって乾いた雑草生い茂る道端の斜面に腰を下ろし、ギンコは一服吸い付けた。
前回だったか。それとも更にその前だったか。
たまたま家の前の通りに入ったところで、その門を潜ろうとしている化野を見掛けた。
だが声を掛けるには遠く、そのまま見送った。どうせ同じ家に向かっている。早いか遅いかの違いでしかない。それに呼び止める間もなく、その姿は門内に消えていた。
だからまさか、一度も振り向かなかった化野が、こちらに気が付いていたとは思いもしなかった。
「よう」
「っ・・・子供みたいな真似を・・・」
足音から距離を測っていたのか、化野は家の前に立つ寸前にひょいと顔を覗かせて、ギンコを驚かせた。
「それに引っ掛かったのは誰だ?」
そう言って化野はにやにやと笑い、凭れていた門柱から身を起こす。と同時に手を、ギンコが負う木箱に伸ばした。
何を・・・と思う間もなく引かれ、素早く短く、唇が合わされる。
門内だったので、無言で軽くその頭をはたくに留めた。それに、やたらと機嫌が良さそうなその様子に、水を差す事もないと思ったのもある。
理由は直ぐに知れた。
「ちょうどいいところに来たな。夕飯の買い物に出るところだったんだ」
今なら要望にある程度応えられるぞ、と言う化野の手には、確かに財布が握られていた。
「出るって、戻ってきたところじゃなかったのか」
いかにも自然な足取りで家に入っていった、先程の事を思い出しつつ問えば、大仰に首が振られ、深刻な顔で化野が答えた。
「いやそれがだな。出て直ぐにすごいモノを見てな」
「すごい物・・・?」
「随分綺羅綺羅したモノだ。目が潰れるかと思った。それで家に避難したら、お前だったんだ」
「・・・悪い事は言わん。眼医者に診て貰ってこい」
「何っ!? もう手遅れか!」
「・・・お大事に」
「待て待て待て! 何処に行く気だ」
半ば本気で背を向ければ、それを察した化野が慌ててその腕を掴んできた。
「いやなに、どうも俺の所為のようだから、迷惑だろう、と」
「冗談も通じんのか」
「その下手な冗談を聞かされる身にもなってみろ」
「なら本気の方がいいか?」
「・・・・・・」
無表情に見返せば、化野は苦笑して頭を掻いた。
「あ〜。いや、あながち、嘘でもないぞ」
「まだ言うか」
「本当に。なあ、こうして、お前を迎えに出るのなんて、初めてだよな」
そうして笑う顔がひどく楽しそうだったので、ギンコは目の険を和らげて考えた。
「・・・そうだったか?」
「おう。お前のその髪だが。遠くからでも良く分かるんだな。お日さんを浴びると、本当にこう、綺羅綺羅してたぞ」
「・・・白いからな。反射するんだろ」
「いい目印だ」
「・・・目印か」
あっちから、と化野が指差す方に視線をやれば、ギンコが降ってきた山があった。
「お前が来るのが見えた。最初は風に揺らされた葉が光ってるんだと思ってた」
化野の言う通り、晴天の下の山は多種とはいえ緑一色に見えて、その実、わたる風に波立つ木々が白く光っていた。
「あの中にあっても、俺はお前だと分かった。だから、出迎えてみようと引き返してきたんだが・・・足が速いな。家の前までしか戻ってこれなかったぞ」
やたら嬉しそうにそう言ってギンコの前髪を一房指に絡め、化野は弾くようにして放した。
そのくせ、
「さて。買い物を済ましてくる。家で待っててくれ」
要望を聞くと言っていたのを忘れ、化野はさっさとギンコに背を向けると、港の方へと行ってしまった。
何も返せずにいた自分と同様、実は化野もあの時、照れていたのではないか・・・そう思い付いたのは、数日後、里を去ってからであった。
言い訳など、思い付かない。
だからと言って正直に、お前があの時嬉しそうだったからだ、とはどうしても気恥ずかしくて言いにくい。
そんな己にうんざりとして溜め息をつき、そのまま草の上に寝転んだ。
仕事が入っていない限り、きっと化野は村の入り口まで出てくるだろう。どうもあの時、家の前よりもっと里の外れでギンコを迎えたがっていたから、身軽なあの男のことだ、それくらい何でもないはず。
そこまで考えて、ふと気付く。
こんなところで寝ていては、まるで待つ風情そのままだ。
それはマズイ。
あの時と同じ状況を作るために連絡したとはいえ、これでは露骨過ぎる。言い訳を考えるどころの話ではない。
少し引き返して、木の陰にでも隠れるか。
と。
身を起こし掛け、ギンコは再び斜面に、しかも勢いよく寝直した。
何でだ。もう、見付けられちまってたのか?
緩やかに海へと向かう里の坂道。
遠くまで見通せる、ほぼ真っ直ぐなそれを、見知った輪郭を持つ男が、俯き加減に里の入り口へと登ってきていた。
化野はひどくゆっくりとした足取りで、里の入り口へと歩いている。
懐手に、表情もなく、何かを思案している様子に見えた。
そのまま里の外へ一歩。
そしてギンコが居る所とは逆の方へと、その足を向けた。
ギンコはしばらくその背を見送り、それから身を起こした。
遠ざかっていく歩調は変わらない。急ぐでもなく、殊更遅いでもない。
湾曲を描くその細い道の先に姿が消えてから、ギンコも後を追った。少し足を速め、大声でなければ声も届かない距離まで詰めてから、化野の歩調に合わせた。
ギンコにあったのは警戒心だった。
いくら身を伏せていたとはいえ、草の上の自分の髪が、我ながら目立っていただろう事は想像がついた。
そんな自分を、化野が見落とすとは思えなかった。
だとしたら。
化野のあれは素知らぬ振り、ワザとだ。
近寄ったところを驚かす・・・そんな魂胆ではないだろうか。
別に、そんな他愛もない悪戯に付き合っても良かったが、前回同様、それだけで済まなかった場合は困る。
誰が通るとも知れぬ、視界の開けたところで、軽くとはいえあんな接触は御免被りたい。
いや、道端でなけりゃいい、って意味じゃないが。
穿ち過ぎる自分の考えに呆れながら、それでもギンコは、化野に声を掛けるのをもう少し先にした。視界の良い、つまり周辺に人影の有無を探しやすい場所が、このまま行けばあった。
万が一の為である。
決して、絶対に、そうなる事を拒まない為、ではない。
紺地の背が角を曲がった。
ギンコから思わず舌打ちが洩れかける。
その曲がり角が、考えていた場所の手前だったからだ。
仕方なく足早に角へ向かい、様子を探り、足音が途切れていないのを確認してから、その道へギンコも入り込んだ。
片側は民家の裏手で高い板塀が建て回され、逆側は削られた山が崖のように塞いでいる。反転しようとすれば、背負った木箱が引っ掛かりそうに幅が狭い。
化野はというと、振り返ってギンコを確認するでもなく、相変わらずの歩みで道を突き当たり、曲がって道から姿を消した。
ギンコは再び、角から様子を窺い、同じように背を追う。
そんな事を更に二度、三度、繰り返した。
流石に不審を覚えた。
化野の足の運びには、迷いも遅滞もなく、だが無駄な進路を選んでいた。
この俄か追跡劇が始まった山に、今また向かっている。
一旦は里を挟んで逆の浜辺の近くまで、または化野の家の前を通り過ぎた上で、だ。
もう里中のほとんど全てを、引き回されているようなものだった。
ワザとにしては執拗過ぎる。
ワザとじゃないなら、尚更おかしい。
いやもう既に、ワザとだとは思っていない。
ギンコは柔らかな土に残った化野の足跡の側へ、膝を付いた。
不審を抱いてからその事に気が付いた。
足跡に重なる、もうひとつの足跡。
それは、蹴爪を持たぬ鳥のような、三本指の跡だった。
屈み込み、それに指を這わす。
彼に踏まれた物ではない。これほどはっきりとした輪郭が残っているという事は、彼の履物の裏に付いている事を示していた。
四つ辻酔いだ。
時折、気紛れに、自分が一緒に旅をする蟲。
一体また、何処で拾ってきたのか。
四つ辻酔いは名に反して、道というものを嫌う蟲だった。
藪や生い茂った雑草の中、もう使われなくなったような獣道に普段は隠れている。
そんな所で、通りかかる獣や人を待ち伏せ、次のまた隠れられる場所へと移動する。
行きたがっている何処があるでもなく、ただ移動するために移動するものに引っ付く。そうして気に入った隠れ家を発見したら、あっさりと離れる。
ただし、その特性を知らないと、目的地にいつまでたっても着けない。四つ辻酔いが気に入った場所を歩き、自ら離れていかない限り、違う道へ曲がらされる。いつまでもそうして歩かされる。
目的地、つまり引っ付いているものが移動をやめそうな場所が近付くと、その足取りから読んで悟るのか、四つ辻酔いは違う道を「足」に選ばせる。
それが四つ辻酔いと呼ばれる由縁である。
そんな多少の強引さはあるが、それ以外何もなく、害のない蟲である。
何処の道なき道を歩いたのか、化野にその四つ辻酔いが引っ付いている。
対処は簡単なのだが、今回はそれもどうだろうか。
化野の目的は、ギンコと会う事、それだろう。
目的「地」であるギンコから近付けば、一体どうなるのか。四つ辻酔いの天敵ともいえる「目的地」に、足があった前例などない。
それにこれまでの事も考えてみれば、里を引き回されたのではなく、四つ辻酔いがギンコから逃げようとしていたのだとも取れる。
下手に距離を詰めて、もし走らされたりしたら。
何があるとも知れないその先が、危険な場所だったら。
化野を危険に晒すわけにいかない。
ギンコはしばらく化野を見送り・・・横道へ逸れた。
2
「うわっ!?」
土砂崩れの前に立ち尽くす姿に体当たりを食らわせ、転ばす。
押し倒すようにしたのは、四つ辻酔いによって逃走を図られても、阻止する為だった。
草履を取り上げ、遠くへ放り投げた。
「化野は返してもらうぞ、四つ辻酔い」
「ギンコ・・・?」
草履は意図した通り、土砂とともに流されてきた藪の中に落ちた。
それを見届けて、深く息を吐く。
ギンコの行動は、一種の賭けだった。
もし前提が間違っていれば、それこそ本当に、化野を危険な目に遭わす可能性もあった。
里を囲む山の一部が土砂崩れを起こし、道を塞いでいた。
こちらの道は滅多と使われない道で、ギンコ自身、この道で誰かと擦れ違った事はない。
嵐から二日経った今も放置されているのが、そのいい証拠だろう。
化野がそれを知らなければ、ギンコを避ける四つ辻酔いを誘導し、そこへ追い込める。もし知っていたら、避けたその先には、土砂崩れによって出来た、這って降りるしかない崖だけだ。
自分が来るのがもう数日でも遅ければ、当然化野もこの土砂崩れを知っただろうし、そうなれば、四つ辻酔いを引き離すのはもっと難しくなっていた。
「随分予想外の所から来たな、お前」
半端な態勢だった腰を取られ、地に寝転ぶ化野の胸の上にギンコは倒れた込んだ。
身を起こそうとすれば、首に腕が回り、引き寄せられる。
「ちょ・・・。・・・っ。ちょっと、待て。俺まで泥まみれにする気か」
上下を入れ替えようとする動きに、ギンコは慌ててその腕を振り払った。
「俺をそうしたお前が、それを言うか」
不服そうな化野に、ギンコも言い返す。
「お前が何処ぞで蟲を引っ付けるのが悪い」
「蟲? 草履にか?」
その事に興味惹かれて起き上がる気になった化野に、ギンコも手を貸してやりながら頷いた。
「ああ。何処を歩いたんだ、お前。あれは、普通に暮らしている分には、引っ付かれる事のない蟲だぞ」
そう言って、どんな所に居る蟲か、四つ辻酔いについて説明すれば、覚えがあるとばかりに化野は手を打った。
「今朝、山に入り込んだ時だな、きっと」
「何でまた」
「隠れる場所を探してたんだ」
「・・・誰から」
「お前。折角だから、迎えるついでに驚かしてやろうと思ってな」
「・・・そりゃおめでとさん。目的は達成したぞ」
驚くどころか肝まで冷えた・・・と言ってやりたかったが、そもそも話をややこしくしたのは自分ではないか、そんな思いがギンコにはあった。
変な警戒をせず、最初のあの時に声を掛けていれば、事はもっと単純だったに違いない。
一番近付き、しかもギンコが正面に立ち塞げたのは、あれきりだったのだ。
「ところでギンコ」
「何だ」
「その四つ辻酔いとやらは、俺に引っ付いて何をしてたんだ?」
着物どころか髪にまでついてしまった泥を叩き落しながら、化野は問うた。
「何って・・・まあ、要約すりゃ、迷子にさせられてたんだよ、お前は」
「迷子ぉ? 知っている道でかぁ?」
それだけか、と言いたげな様子に、ギンコは眉を寄せた。
「知っていようが、迷子は迷子だろう」
もしかすると命を脅かしかねなかった事など知らぬ化野には、確かに「迷子」などたいした事ではないだろう。
迷子を侮るな、とでも釘を刺しておこうかとしかけ、だが続いた化野の言葉に、ギンコは絶句した。
「どんな大事かと思ったぞ。何せ蟲に向かって『返して貰う』なんて、お前が言うから」
反論は出来なかった。
言った憶えはあったし、化野を引っ掻き回す四つ辻酔いに、腹を据えかねていたのも本当だった。
間違いなく、「返せ」というのは本音だった。
その通り、だが。
「そうかぁ。俺はお前のものか。なるほど」
「それで泥に上に押し倒されたのか、俺は」
「うん、まあ仕方ないな。俺から四つ辻酔いを引き離そうと、お前も必死だったんだろうしな」
やたらご満悦な様子でそう何度も繰り返され、羞恥心に苛まれるくらいなら、と。
草履から離れ、藪と土砂の隙間で次の「足」をじっと待つ四つ辻酔いを見下ろしながら、
もう一度、あいつに付けてやろうか・・・。
そう考えた自分は、蟲師として失格ではないはずだ、と思うギンコだった。
「謎の蟲名一欄」より『四つ辻酔い(よつつじよい)』
作者様コメントより
黒くて、ぺっちゃんこな蟲の姿です、脳内。ぺらっぺらで、人やらに引っ付くより、風で飛んだ方が早いんじゃないか? って感じの。指三つなのはこだわりですが。四辻、なので、来た道以外の残り三本の道をそれぞれ表してるつもりでした。
「ぴよぴよぴよっ」と、四つ辻酔いに引っ付かれた人は、その足元からそんな音がすれば、もっと面白おかしい事になったのに・・・!
眞住様・投稿
08/07/31