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邂いて逅う(あいてあう)




なぁ、化野、もう眠ってしまったのだろ?

俺を一時、世話してくれたサヤク、という名の蟲師は、
その夢を見た次の朝、言い伝え通りにそれを見届けに行って、
そのまま二度とは、帰って来なかったよ。

そう…
その夢を見た蟲師は、それを見届けに行かねばならぬ…
深い深い海の底の、それが、それが…
いったい、どんな、蟲なのか…


 まどろむ化野に抱かれながら、ギンコがその話を小声で聞かせる。化野は小さく、うん、うん…と言いながら、ろくに聞こえている様子が無い。淡々と続くギンコの声。


海の底だからな、どんなことがあるかもしれんし、
だから、それがこの傍でよかったと思ってるんだ。
ここにこうして来れた。
…お前は俺を少しは好きだろ。
…俺もお前を少しは好きだよ。
だからそれでいいから、もしも俺が、もうここに来なかったらな。
それでいいから、充分だから、忘れちまっても、怒りゃあしねぇよ。


 そこまで言って、ギンコは化野の黒髪に、すりすりと頬をすり寄せる。髪なのに、温かで、それに鼻の奥が、つんと痛くなるようで、ギンコは翡翠の瞳と、闇の穴の瞳を、はたはたとしばたかせた。と…、不意にぼんやりと目を開いて、化野は言う。寝ていたわけじゃあ、なかったのか。


なに言ってる、少し? 少しじゃないぞ。物凄く、だ。
それこそ、好きだなんて、そんなので言い表せやしないくらいなのに。
そうだなぁ「      」って、言ったら、お前…
お前は、どうせ、笑うのだろ…な。

 言い終えて、すう、と寝入る化野。ギンコは思いがけない言葉に、目を見開いて、その後、慌てて目元をゴシゴシと擦った。それから化野の寝顔を、食い入るようにじっと見て、彼は愛しい相手のその腕を、自分の体から解いて、彼の傍を離れたのだ。

 *** *** ***

 海を目指す。そうして月の明かりの下を、沖へゆく。

一人小さな舟を出し、目的の沖まで出ると、彼は片足首にしっかりと縄をつけて、思い切りよく波間へと飛び込んだ。どんどん潜って、潜っていって、息が続かなくなったら腰につけた革袋の中の空気を吸う。
 やがて彼は、海の底に黒い闇を横たえたような深い溝を見る。だけれどまだ其処までは遠くて、よく見えない。振り向いて、自分の足首の縄を見る。もうほとんど、ぴんと張っているから、ここから先へいくのなら、する事は一つだ。

 ギンコは思い出す。

 …サヤク。優しい男だった。声と背格好がスグロに少し似ていた。記憶をなくした後の自分に、優しくしてくれた二人目の相手だった。そのサヤクが飛び込んだ海の色を思い出す。これと同じ色だった、と、思う。切なく、恐ろしく。

 サヤク。
 そしてスグロ。
 もう俺も、いっぱしの蟲師だよ。
 だから行くさ。
 逃げずにだ。
 見ていてくれる、筈だよな。

 腰に差していた小刀を、片手で取って、鞘を口に咥えて刃を剥き出しにする。それで足首の縄を切る。そういやこの小刀は、化野がくれたものだっけ。あぁ、そうか、お前はいつも俺を、優しい腕で縛りながらも、最後には自由にさせてくれるんだな…。

 足の縄を切った途端、誰かが…蟲が、それを見ていたように、彼のいる場所の水が、ごう、と音立てて荒れた。こんなに深い海の中なのに、まるで意思あるもののように、彼を飲んで、逆巻いて、奥へ奥へとギンコを連れて行くのだ。気が遠くなり、意識が遠くなりかけて、そこでギンコは、確かに目の前に其れを見る。

 巨大な裂け目が、見ている前に更に割れて、水を轟かせるような低い音が、ごん、ごん、と鳴り響く。海の底の、大地が割れていくのだ。
 その蟲の名を「カイコウ」と言うのだと、言い伝えが教えていた。見てのとおり、つまりは「海溝」か。この裂け目の奥に蟲がいて、それがその名なのか、この裂け目自体が蟲なのか。
 ギンコ一人の目の前で、地が左右に割れて離れてゆく様は、なんとも言えず大きく恐ろしくて、それは、巨大な「別れ」のように思えた。この裂け目はきっと、二度とは元に戻らぬのだろう。そうして、いつしか誰かに聞いた、大きくて丸く、美しい青なのだというこの大地が、壊れてしまうのだと。


 不思議とはっきりそう思えて、ギンコは何とも言えず哀しかった。
 見届けろというのは、このことか。
 大地を巡る蟲たちが、ここでこうして何かを告げていると、
 それを見よと、そう言うのか。
 
 大地は、永遠などではない、と、
 それを、知っていよと、そう言うのか。


 ギンコは無意識に、腰にある革袋を探った。それを手にして、口元に…。残っている空気を吸おうとするが、口に入ってきたのは、塩辛く冷たい水だけだった。ごぼり、と泡を吐いて、眩む目でギンコはその時、さらに見たのだった。

 永遠など存在しない、そんなことは知っている。
 だけれど、それでも、それでも願うんだ。
 生まれて来たから、そう願う。願い続けてゆく。
 許される限りは、精一杯、生きていくのだ、と…。

 海の底の裂け目から、銀色の美しい雪が…雪のようなものが、ふわふわと漂い出してくる。海の底が大地、朧な光を落としてくれる海面が空。地から空へと雪が戻っていくように、銀色の小さな蟲たちが、ふわふわ、ふわふわ。
 そうして、ふと見上げれば、海面に注ぐ月の明かり、その一つ一つの煌めきから、金色の光の欠片のような蟲が、きらきら、きらきらと降り落ちてくる。それらはギンコのまわりで、銀色の一つと、金色の一つとでぞれぞれに出会って、重なり合って二つは一つになって、そうして海の水の中へ溶けてゆく。
 消えるのではないのだろう。きっと海の色と同じになって、そこで生きる蟲なのだろう。

 そんな美しい光景を、ギンコはぼんやり、見惚れるように眺めながら、遠のく意識で、ふと気付いたのだ。カイコウという名の蟲。「海溝」ではなく、それはきっと「邂逅」なのだろう、と。
 出邂い、重なり一つになり、そしてまた、長い長い時の果てで、蟲らは出逅う。それを繰り返して、彼等はゆっくりと、繁栄してゆく。この大地に存在する、海の、その底で、ひっそりと。


 尊いもんだ。と、ギンコは思った。
 命はほんとうに、美しいもんだ。と、そう思った。
 だからこそ、生きたいと、思ったのだ。


 *** *** ***


もう、駄目なのか。と、誰かが小さな声で言った。化野はギンコが乗っていた筈の舟の縁に手を掛けて唇を噛んでいる。潜りに長けた漁師を、幾人も幾人も集めて、そうでないものも集まって、ありったけの舟を出した。
 それで、海に浮かぶ、からの舟を一つ見つけ、そこから垂れた縄の先がふっつりと切れているのを、たった今、潜った漁師が見つけたのだった。

「…駄目、なんかじゃない…。あいつは、別れなんか、言ってやしなかったんだぞ…っ!」

 漁師の一人が、舟から海の中を覗いていた箱めがね、それを横からひったくるように奪って、化野は身を乗り出して海の中を見る。あぶない、おちる、と、一人が言って、彼の右側から支える。別のものは左から支え、また別の一人が、箱めがねの扱いを、小声で化野に教えている。

 誰一人、諦めてなぞいない。
 生まれたものを生かす。
 生きているものを生かし続ける。
 その為に。

「何か、光った!」
 
 化野が言った。傍にいたものが首を傾げるが、彼は続けて言った。

「縄じゃないのか。その切れた縄のもう一方っ」
「いや、縄は光ったりなんぞしな」
「また光った! やっぱり縄だ。長く伸びて、こっちに近付いてくる! それを掴んでくれ、その、銀や金に光ってるそれを、早くっ!」

 けれど水に潜れるものも、別の舟の上で箱めがねを覗いているものも、化野以外誰一人として、その光る縄とやらが見えていない。

「俺がいく…っ」
「せんせい、あんた、泳げないだろ。駄目だよ、溺れるっ」
「いいや、行く。溺れてでもあれを掴むから、掴んだら、皆、俺を助け上げてくれっ!」

 言い捨てるが早いか、化野は舟縁から飛び込んだ。波の下でもがいてもがいて、それでも化野は必死で、縄へと近付いた。そうして海水をたらふく飲みながら、やっとの思いでそれを掴んで、漁師達に引き上げて貰い、今度は皆で、掴んだ縄を引っ張った。

 不思議なことに、水の中では光っていた縄が、今は光っていなくて、誰にでも普通の縄に見える。けれども掴んだ感触が、何やらふよふよと柔らかく、それでも切れずに、その先にいるものを、ギンコを、しっかりと舟まで引き寄せることが出来たのだった。

 
 *** *** ***


 皆に迷惑かけたこいつを、
 こってりしぼってやらにゃならんから、
 ここに二人にしてくれないか。

 化野は漁師達に頭を下げて礼を言った後、一番浜に近い家で、ギンコと交互に湯を借りて、それから、海辺の昆布干しの小屋を一つ借りたのだ。疲れ切ってて、坂の上の上の、自分の家まですぐに帰るのもしんどいし、と。それに付け加えた。

 それで粗末な小屋に二人になって、化野はまずは言った。

「…蟲絡みで、か」
「まぁ、そうだ」
「だろうな。ったく…俺を…」

 唐突に、ぶるり、と震え上がって化野はギンコの姿を、上から下までゆっくりと眺め回し、そうして彼は泣き出しそうに顔を歪め、怒った声で言った。

「俺を、殺す気か、お前。お前が生きていなきゃぁ、俺だって、生きてく気なんかないんだぞ…」
「…あぁ、すまんな。化野、俺もだよ」

 あんまり素直に言葉が吐かれたので、化野は一瞬呆けた。

「な、何が『俺も』なんだ…?」
「俺も、お前が死んだら、生きてない、かな…と。それから昨日のも、俺もだと、言っとく」
「そ、そっちはなんだ」
「…言ってくれたろう…?」

 暫し考えてみて、化野は少し、頬を上気させる。言った覚えはある。少し寝ぼけていたかもしれんが、それでもいつも、心では言い続けている本心だ。忘れるはずも無い。

「なんだっけか」

 忘れたふりで言ってみる。どうせギンコは言うまい、と半ば諦めながら。

「うん、あいしてる、とな。だから…俺もだ」
「…うぅ…」

 嬉しくなって、化野は口を押さえて項垂れた。項垂れて見た視界に、ギンコの裸足の足首が見えた。縄が結ばれていて、そこからすぐのところが、ぶつりと断ち切られている。

「これ、もっと長かったよな…?」
「いや、長かったのは蟲、だろう。助けてくれたんだ」
「そうなのか?」
「うん、そのようだ」

 思い出して、ギンコは気まぐれに一つ尋ねた。

「ところでな、化野。カイコウって、知ってるだろう」
「…ぁあ、出会う、という意味だろ? なんだ」
「……いや、なんでもないよ」

 迷いもせずに、化野はそちらを言った。それが何故だか嬉しくて、足首の縄をそのままに、ギンコは彼へと手を差し伸べた。両腕を伸ばして捕まえるように、化野の首を抱き寄せる。こってりしぼる予定など、どうでもよくなる事態と言えた。

「…珍しいな」
「かもしれん。いいだろう…?」
「無論だが」

 抱き寄せられ、口づけを受けて目を閉じると、脳裏に金と銀が揺らめいて重なり、一つになっていくのが見えた。あの、海の底で見た光景だ。それは、命の営みの、一つの形。だからこそ、二人、今、肌を重ねたい。


 生まれたから生きていく。
 そうして、出会えたから、
 生きていたいと、思わせてくれるから、
 だから、生きていくのだ、この先も。

 

 終








「謎の蟲名一欄」より『カイコウ(邂逅または海溝)』


惑い星・投稿

08/07/31