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天つ笠
蟲師は、片腕で何か軽そうなものを抱えていた、布に包んだそれの内側から、一本の縄が滑り出ていて、その縄の先は、包みを抱えている彼の手首に結び付けられている。
と、彼の…ギンコの足が、土から出た木の根に躓いてもつれる。包みを抱えた手が緩み、そこから古びた笠が、ぽろりと零れて地面に…は、落ちずに、それは空中に漂ったのだ。
「あぁ…いかん、逃げっちまう」
幾らか慌てて手を伸ばし、自分の背の高さよりも上に浮いた笠を、しっかりと捕まえてギンコは、静かな仕草でそれを撫でる。
「お前、さぞや空へ戻りたかろう。でもなぁ、ちぃと、頼まれてくれよ。なぁ、蟲よ」
ギンコは顔を上げ、荒れ果てて草の生い茂る道の先を眺めた。壊れた木戸を抜けた向こうの、もう崩れそうな小屋の中に、ぼう、と宙を眺めて座ったまま、壁に背を寄りかけている男がいた。傍らには、錆びて歪んだ研ぎかけらしい刀が転がっていて、その刀身には、渇いた血らしきものがこびり付いているのだった。
彼の投げ出した腕に、足に、汚れた包帯。汚れは血だろう。それも自らの刀で、自らを傷つけたという傷なのだ。眠らず、夢を見ずにいる為に。
「なぁ…」
と、ギンコは言って、笠を包んだ布を解いた。手首に縛った縄も解いて、笠を男の頭に被せた。そうして笠が外れたりしないよう、顎に紐をかけてしっかりと縛った。
「なぁ、お前、俺を覚えているか…?」
「…忘れるものか、蟲師の…ギンコ、だろ」
「あぁ、そうだ。…お前が嫌いな『夢』を見ずにいられるように、これをやるよ。だから、ゆっくり眠るといい」
「…は…。余計な…」
老人のようにしわがれて、かすれた声でそう言ったきり、男は深い眠りに落ちた。怯えたように、辛そうに眉間に皺を寄せたまま、鍵の形に曲がった指で、汚れた床に爪を立てている。
「嫌だ。もう…いや、だ…。キヌ…。マユ…」
「…大丈夫だ。俺は二度とお前に嘘なぞ付かない。ただ、お前の夢を喰う蟲を、連れてきてやっただけだよ。これからは、こうして笠をかぶってゆっくり眠れ。そうでなくば、お前、もう死んじまうじゃないか」
天つ笠は、人の見る夢を喰う蟲。本当は遥かに高い空を行きながら、時折、誰にも見られない姿で下りてきて、一つ二つ夢を喰っては、また空へと舞い上がるそれだけの蟲。こんなこと、単なる付け焼刃なのかも知れぬ。それでもこうせずにはいられなくて、ギンコは空を舞う蟲を捕らえたのだった。
傍らで、研ぎ師だった男は眠っている。安らかには見えない苦悶の顔で、それでも静かに呼吸して眠っている。ギンコはやがて腰を上げ、紙切れに「笠」のことを一言二言書いてから、また終わらない旅へ出た。
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そこから随分と離れた山間で、ギンコは空の高みを行く、今は半透明になって見える笠を見た。驚いて立ち止まり、目映い夏空に眼を凝らすと、ギンコが結びつけた紐が微かに見える。確かに、あの笠だった。
そうしてその日、立ち寄った里で噂を聞いたのだ。以前、研ぎ師をしていたある里の男が、やっとまた研ぎ師の仕事を始めたが、あまり続けられないうちに、死んだのだ、と。刀を、己の体に突き立てて…。
蟲に憑かれるのは、もう、まっぴらなんだよ。
本当に、もう…いいんだ。
これから俺は、キヌやマユに、会いに逝くから。
そんな声が、何処からか聞こえた気がして、ギンコは遠い空を滑っていく天つ笠を、まぶしそうに見あげて、口元だけで薄く苦く笑った。
あぁ、そうだな。悪かったよ。余計な世話、だったんだな。
終
謎の蟲名一欄より『天つ笠(あまつかさ)』
作者コメントより
ギンコが腕に紐を結んでいるのは、きっと…人目のない場所では、天つ笠をる空に浮かべて、ひっぱりながら歩いていたからだと思います。微妙に凧揚げのような…。
惑い星・投稿
08/07/29