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藍色緋色



1

 朝がだるい。と、化野は思っていた。それでもギンコの来ない一日がまた始まる。このところずっと、三ヶ月程度の間を空けて来ていたから、そろそろなのだ、と思わされていた自分が悲しい。
 もう、四ヶ月になっちまう。数えている自分が更に虚しい。そりゃ、約束なんぞして貰っちゃいないが、待ってるのくらい、もう判ってるんだろ。それならこんなに待たせずに、会いにきてくれてもいい筈を。

 くす。

 と、化野は不意に笑った。何か酷く可笑しいことでもあるように、くすくす、くすくすと笑って、縁側に置かれた草履を半端につっかけ、踵にぷらぷらとさせながら、彼は蔵の方へと向うのだ。

 だぁいじょうぶ。
 俺には買い集めた珍品がある。
 ギンコ? なんだ、あんなヤツ。
 あんな… あんな…
 つれない酷いヤツなんか。  
 来なくったって、清々すらぁ。

 くすくす。

 最近手に入れた、アレ。アレを見ていれば、ギンコのことなんかどうでもよくなる。アレ。なんだっけ。紫のびいどろ? いやいや、それはその前に買ったんだっけな。そうそう、鏡だ。いや? あれはもっと前に割っちまったんだったよ。なんだっけ。あぁ、そうだ、何も…最近、買ってないんじゃないか?

 だって ギンコが 煩く言うから。

 蔵の前まで来てしまって、楽しく見るべき愛しい新しい品なぞ無いと思い出し、化野の足は止まる。と、その目が微かに見開かれ、彼は、ほぅ…と感嘆するかに息をついたのだった。
 白い、白い花が、一輪そこに咲いていた。
 それも蔵の戸の左下の、ほんの少しの隙間から茎を伸ばして、たったひとすじ、ひっそりと。
 白の花、とは言えど、その姿は他のどの花とも違っていて、白いのは、たった五つの楕円の花弁だけではなく、その茎も真っ白く葉は無く。ただ、蕊だけが、怖いほどに冴え冴えと藍色なのだ。逆に、蕊だけが藍で、他は白と、そう言う方が早い。

 そう、明らかに、蟲…だろう、これは。
 あぁきっとそうだ。
 なら、あぶないものかも知れん。すぐにギンコへ。

 浮き立つ心で化野はすぐに部屋へと取って返し、文机にしがみ付くようにして文を書いた。どうしても急ぎの時だけ、と約束させられた上で、やっと教えて貰えたギンコへの連絡先。ウロ守、と呼ばれる家へ宛てて文を出せば、どうやらギンコへと届くらしい。書き終えて急ぎ、里長の家へと走り、丁度来ていた旅人へとそれを託す。

 待つ時間は長い、七日過ぎ、十日過ぎて、やっと返事が届き、それを貪るように、化野は読む。

 『急ぎ知らせる。けして触れるな』

 と、それだけ。

 十と余りのその文字が、ギンコから化野への言葉だった。つめたい、と思ってしまった。こんなに急いで知らせたのに、すぐここへ向かうとか、心配だとか、言ってもくれないのか。どんなに想ってもそれは、俺からお前へと向かう、ただの一方向。帰ってくるものは、ない。手からぽとり、と文が畳へと落ちていた。

 くす。

 笑いが込み上げた。馬鹿にしてる、こんな。俺がお前を待ってると知ってて、ただのこれだけなのか。心配しているのなら、もっと、何か、あるだろう。どうせ心配もされてないなら、俺の天邪鬼な心で…。そら、お前が来てくれないからだ。後悔しろよな、ギンコ、ギンコ。

 それから、化野は蔵の前へと歩いた。ひょい、と体を屈め、手を伸ばす。右手の指先。人差し指の先で、そっと花に、その藍の蕊に、彼は触れた。くすくす笑いながら、心で泣きながら。
 
 途端に、体が、すう…と冷えた。

 あだしの、と、自分を呼ぶギンコの声が、聞こえた気がした。

 
 *** *** ***


「あだしの…っ」

 ギンコは地下の冷え冷えと寒いその場所で、ほんの一瞬、眠りに落ちていたらしかった。目を開くと、目の前には大量の巻物。足元から、遥か高い場所まで、びしり、と隙間無いほど埋められた蟲の記録。
 額を押さえ、ギンコは短く息をついた。目を開いて見た視野が、夢の名残で白く青い。野に一面のその花の中に、埋もれて化野が眠っている。死人のような顔で、眠って、いる。そんな怖い夢だった。

 あいつ、

 と、ギンコは思う。
 あいつ、俺の文は読んだろうか。
 言いつけをちゃんと、守ってるんだろうか。

 すぐに向いたい気持ちはあれど、調べなければ向かえやしない。「藍の蕊」は危険な蟲だ。曖昧な知識しかないが、それだけは知っている。近くにいるのも良くない。触れるなど危険そのもの。深く憑かれれば、助けられないだろう。ただ、通常は草花にしか憑かない蟲だから、特に稀の場合で無くば、人に多大な害は及ぼさぬ。

 けれど、嫌な予感がした。手を伸べて取った巻物に、やっと藍の蕊の記述。

 生き物の傍にあれば、負の心を膨らませ
 それが特に大きければ、草花ではなくても憑いて離れず、
 そのものを、幾夜かで死に、至らしめ … 
 
 読みながら、ギンコは背筋に寒さを感じる。やはりだ、危険過ぎる。あぁ、執筆を終えた淡幽が意識を無くし、たった今も臥せってなぞいなければ、彼女に尋ねてすぐに答えは出ただろう。そんなことももう、過ぎたこと。さらに一度読み返し、しっかりと脳裏に焼き付け、ギンコは狩房の家を出ようとする。

 走り出す背中に、やっと床に起き上がったらしい淡幽の声が、投げ放たれてぎりぎり届いた。背中向けたまま片手を上げて、感謝の意を伝え、ギンコはそのまま走るのだった。


 *** *** ***


 ここは、水の底か?

 そう、化野は思っていた。しかもきっとここは、氷の張った下なのだろう。そうでなければ、こんな寒さ、こんな凍えそうな冷たさは在り得ない。目を薄く開いても、見えるのは深い藍の色ばかりで、思考までが殆ど凍り付いてしまい、何も判らない。

 寒い。寒い。寒い。
 あぁ、誰か、会いたい相手がいたのに、それが判らなくなっていく。
 
 寒くて…


「化野、どうして、触っちまったんだ…」

 誰かの声がする。体に誰かが触れている。着ている着物を剥がれ、あちらこちら眺め回され、触られていると判る。最後に顎に手が触れて、閉じていた口をこじ開けられる。誰なんだ、あんまり不遜じゃあないか、寝ているものの着物を剥いで、素肌を勝手になぞり回して。

 腹が立って、がちり、と相手の指を噛んだ。途端に火のような熱いものが、喉に入ってきて苦しくなった。咽そうになる俺の口を、その誰かが吸った。

 あぁ…? ギンコ? いや、まさか。
 あんな冷たいヤツが。
 俺を何とも思っていないヤツが。
 今更、こんなに貪るように、俺を欲しがるわけがない。

 舌を、強く吸われて、気が遠くなりそうだった。あんまり熱くて焼けそうで蕩けそうで、びっくりして目を開けたら、きっと夢なのだろうが、目の前にいるのはギンコだった。

「ん、ぅ、…ぉ…」

 おかしい。声が、うまく出ない。

「んん、ふ…」

 ギンコもそうらしい。見れば口から、緋色の細い帯を垂らしている。それがゆるりと弛んで、化野の口へと続いていた。彼は無論、知らぬことだが、それを「移緋」といい、化野へ憑いた蟲「藍の蕊」を喰う、別の蟲なのだ。

 あの時、淡幽はギンコへと言った。あまりに危険だが、移緋を使え。それほど大事に想うのならな。そうして青い顔をしたまま、彼女は小さな瓶に入った緋色の蟲を、ギンコへと投げたのだった。


 ダイジ ダヨ ナニニ カエテモ


 緋色の帯を咥えたままで、ギンコは唇の動きで言った。少し、彼の目が微笑んでいた。酷く儚げで、それでも、それはとても、幸せそうな笑みだった。




2

ギンコの口から、化野の口へと続いている緋色の帯が、不意にすう、と空へ消えた。一瞬遅れてそれに気付き、ギンコはたどたどしい動きで、地に手を付き、足掻くように身を起こす。彼の視線の先には、庭の端へ投げ出してある木箱。

 横倒しのそれから抽斗が幾つか抜けて落ち、転げた中身がしとりと朝露に濡れている。

   タ バコ     火 ぃ   
         
 もつれたような声で、それだけを言って、ギンコはそっちへ這って行く。立ち上がれないのか? 手を貸したくとも化野も起き上がれない。それでも冷えていた体が、少しずつ温まってきていて、死に掛けたのをギンコに救われたのだと判る。
 木箱にようやっと辿り着いたギンコが、転げた抽斗の傍から、紙に包んだ蟲煙草を拾いあげ、震える指で取り出して。遠目にも、濡れているのが判る。火なんぞ、それで点くはずもない。
 その時、どうしてか、ギンコは笑っていた。化野は、まだ半ば夢うつつのまま、それを見ていて、彼の唇が、声にしない言葉を呟くのを見たのだ。


 まぁ いいか おまえをすくえた なら ほんもう だしな


 かくり、とギンコの首が項垂れる。そのまま頭を地に付けて横たわり、目を閉じかけて、化野を見た。愛しい相手の姿を見て、もう一度、体に力を入れて、ずるずる、ずるずると這いずって。
 ギンコは横になったままの化野の傍まで戻ってきた。膝も腕も泥だらけにして、すぐ傍まで這ってくると、今度こそ、かくり、と頭を垂れて、化野の頬に、彼は冷えた手を触れる。
 その指に、赤い帯がゆっくりと、巻きついていくのだ。小指の指先からゆっくりと、くるくる。爪が隠れるまでいけば、次は薬指。見れば逆の指も同じ。それとは逆に、見る間にギンコの肌は血の気を失う。まるで緋色の帯に、血を奪われていくようだ。

 だめだ いやだ とまってくれ とまって … 

 きっとこの細い生きた帯が、彼の両手の指先を、全て緋色にくるんでしまったら、ギンコは…死ぬ…。

 いやだ うそだ おれのせいで …

 おれの せいで   … ギンコ

 
 *** *** ***


 ゲホっゲホ…っ

 目を開く前に、耳に派手な咳き込みが聞こえた。目を開いて最初に目に映ったのは、怖いくらい血走った二つの目。その血走った目が涙を流しながら近付いて、ギンコの口に、濃い蟲煙草の匂いの煙が吹き入れられる。

 ゲホッ ゲホっ ゲホッ

 見れば土の上には、吸い終えた煙草の吸殻が、数十本も転がっていた。
「ギ、ギンゴッ、ぎづいだのが…っ」

 酷いしわがれ声。蟲煙草は匂いもきついし、味も酷く苦いから、無理して慣れないものがこんなに吸えば、そりゃあこうなるだろうと思う。

「ぼ、ぼう、だいじょうぶが…っ?!」
「ぼ? あ、あぁ、もう大丈夫だ」

 傍らには転がった木箱、その横に「おき火」を入れる鉄壷。どうやら、それを家から持ってきて煙草に火をつけ、化野はギンコを救ったらしい。間一髪、というところだったのかもしれない。

 心配そうにしている化野の顔は、青ざめてはいたが、もう藍の蕊の影響はすっかり抜けたと見える。あの時、うっすら青白く見えた髪も、睫毛も、恐ろしいほど青く透けていた手首の血管も、元のとおりに戻っていた。
 遅れて思い出して、ギンコは自分の両手を見る。どの指にも、移緋の緋色は見えない。全身の力を抜いて、ギンコは溜息と共に化野に言った。

「触れるな、と文を出したんだが、届かなかったのか…?」
「…ど、どどいた」
「なのに触れたのか…?」
「う、ずまん。づらぐで…」

 まだ酷い声。この声はいつまでこうもしわがれているのだろう、と、つい思う。優しくてゆったりした、大好きな化野の声は、今回、滞在中に聞けるだろうか。

「何が辛いって?」
「お前に、ずっど、あえないのが…」

 ギンコはしばし黙り込み、まだちゃんと動かない手で、化野の片手を捕まえ、その指先を自分の唇へと触れさせた。温かくてほっとする、生きたぬくもりのある肌。

「死んだら、二度と…会えないんだぞ」
「………」

 煙のせいで、さっきまで流れ続けていた涙。やっと少し前に止まった涙が、またぼろぼろと、化野の両目から零れた。

「もっど…ずごしでも多ぐ、会いにぎでぐでよ。ギンゴ…ぉ…」
「あぁ、あぁ、判った。判ったから、喉を休ませろ」

 はぁ、と、ギンコは溜息を付いた。

 旅をしてる俺を、化野が心配しているのは知っているが、旅などせずに一つところにいる化野を、俺は同じくらい心配していなきゃならん。好いたものがいる、というのは、こんなにも厄介だ。
 それにしても、藍の蕊に体を侵された化野の姿の、妖しくも美しい…あの、濃い藍色の髪、藍色の睫毛に、白い肌に透ける綺麗な青の血のすじ。口をこじ開けて見た、藍色の舌の淫らさ。ちょいと、夢にでも見そうな…。

 これもまた、好いたもののいる厄介さ、の一つか。やっと力の入るようになってきた腕で、ギンコは化野の体を引き寄せた。自分の方はまだ体温が戻らずに寒くて、こんなにも人肌が恋しい。

 化野は抱き寄せられ、嬉しそうにギンコの背を抱いた。その肩越しの蔵の横、白い花弁に藍の蕊の花が一輪、咲いている。少し離れてもう一輪。さらに離れて一輪。元々群れて咲く花だから、こうなるのも判るが、こりゃあ取り払うのが大変だ。


 …野に一面のその花の中に、埋もれて化野が眠っている。
         死人のような顔で、眠って、いる。そんな怖い、夢…


 狩房の家で見た夢を思い出し、ギンコは化野の体を引き離した。冗談じゃないぞ、先に花を全部、何とかせにゃならん。まだ体もちゃんと動かないってのに…。あぁ、本当に…

 好いたものがいる、というのは、こんなにも厄介だ。




 終







「謎の蟲名一欄」より『藍の蕊(あいのしべ)』『移緋(うつしひ)』

惑い星・投稿
 
08/07/28-07/31