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ナガレゴエ ver.2


「……なんだ?」



呼ばれたような気がしてギンコは振り返った。しかし後ろには誰もおらず、ギンコは空耳かと思い首を元に戻した。聞こえるはずがない、それは海のすぐそばにある里で医家をしている恋人の声だ。ここからずい分距離も離れている。
そのまま歩いていると、また聞こえた。ギンコはまた振り返るが、そこには誰もおらず、つい自分で自分を笑ってしまう。さっき自分で確認したところなのだ。


「ギンコ」


また聞こえてギンコは振り返ろうとして、そしてやめた。笑って今度は上を見上げる、見上げた木々の中、枝にそれはちょこんと座していた。
「お前か、声を運んだのは」
おぼろげに、だが美しく光る水色の蟲。丸い形は愛らしく、それに小さな触手のようなものが生えていた、いわゆる手というやつだ。
彼らはある人間に取り付き、その人間がささやいた言葉をさらう、その想いとともに、言葉を乗せて。
「あのバカから持ってきたのか、そりゃご苦労だったな」
ずい分ぶつぶつと言っていただろう、それが安易に想像できて笑えてしまう。その蟲はふわりと木の枝から舞い降り、ギンコの肩に留まった。ギンコが目を細める。
ふわり、と潮の香り。それに続いて波の音が耳に届く。ギンコは蟲を一瞥してから目を閉じた。



思い浮かべるのは青い空、大きな海、打ち寄せて消える波。海鳥が舞いさえずり、太陽が白い砂浜を照らす。その中に腕組をしている片眼鏡をした医家の姿。
「そういや、しばらく帰ってなかったな」
前に帰ったのはいつだったか。抱きしめられ口付けられ、そしてささやかれた。───────何度も、何度も。
ふと、肩の蟲が震えた。



「───────好きだ」



ギンコは閉じていた目を開ける。そして肩に留まる蟲を見て、あいつ、とつぶやいた。
「そんなことまで言ってたのか、……ったく」
どうしようもねぇな、とひとりごちてから、ギンコは片手で頭をかいた。蟲が届けるのはその人間がつぶやいた言葉と、身の回りにある音や匂いだ。つまりその人間は、海に出て今の言葉をつぶやいていたことになる、ギンコはため息を吐いた。
「どういう状況か想像したくねぇな」
願わくばそばに誰もいないことを祈る。浜に出てそんなことを言って誰かに聞かれでもしたらどうするのか。こりゃ釘をさしておかないと、とギンコは考えた。
蟲が肩からふわりと浮き上がり、ギンコの頭上を回りだした。そうは見えない小さな手をしきりに上下にぱたぱたと動かす。それを見てギンコは気付いた。
「行くのか?」
蟲は物もいわずくるくると頭上を回る、催促しているのだ、言葉をくれと。ギンコは少々うんざりした顔で仕方なくつぶやいた。


「化野の間抜け」


蟲は宙に浮いたまま静止する。ギンコはポケットから煙草を取り出し、蟲に言った。
「お前さんには苦手なものだろうが、この匂いも届けてくれ」
それで俺からとわかるはずだ、そう言って火をつけた。独特の匂いが辺りに広がり、蟲はその煙に触れると驚いたように跳ね上がり、逃げるように空へと勢いよく飛んでいった。ギンコはそれを見てあー、とぼやく。



「ありゃ、匂いは期待できそうにねぇな」
それでも、声は届けてくれるだろう。ギンコは荷を下ろしそれに寄りかかって座ると、今しがた火をつけた煙草の続きを吸い始めた。しばらくそうして休み、立ち上がると荷を背負いなおす。
「行くか…」
進路を変えて歩き始める。行き先は海の匂いのする里だ、ギンコはため息を吐く。
きっと蟲のほうが早く着くだろう、興奮した男が文を出してくるのは目に見えていた、だから。



「……だから会いに行くだけだ」
誰へともなく言い訳をする、あの匂い、あの音、そしてあの声を聞かされたら恋しくなったなどとは絶対に言えない、言いたくもない。
あくまで蟲の話を聞くために。ギンコは自分にそう言い訳をしながら緑深い山の中を歩いていく。それから思いついたように、浜で変なことを口走るな、と釘をさしておかねばとつぶやいた。


歩いていると荷がことことと音を立てる。ギンコはそれを聞いて煙草を片手に苦笑いする。


「早ぇな」


やはり蟲のほうが速かったか。ギンコはまたのんびりと歩き始めた。音を立てた原因を見ようともせず。
どうせ書かれていることはわかっている、蟲が出た、言葉を話した、お前の声で。そしてあとは。



───────あとは、会いたいと、そのひと言だけ。





                おわり。




「謎の蟲名一欄」より『ナガレゴエ(流れ声)』

作者コメントより
「ナガレゴエ」第二弾でございます。
今回のナガレゴエは言葉をもらって、音も匂いも運んでくれるというスグレもの。海の匂いと波の音ってなんであんなに安心できるのでしょうか、というわけで、ギンコさんにも帰りたいと思わせてみました(笑)
煙草の匂いが届けられたかは、皆様のご想像で!(笑)

JIN・投稿

08/07/25