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四つ辻酔い


1


金陽。楡のつややかな葉から降る蝉の声は、いつしかやんだ。
大樹の足もと、夕暮れの四辻に、子どもが売物の祓い串を束ねて、行き来している。

─おうぼうず、じき日も暮れる。そろそろ仕舞いな。
片手を振った旅人の背が、茜の路を遠のいた。
─‥あんたが買ってくれりゃ仕舞うけどな。
行き交う人々もそれを最後にとだえて。
夕風がかすかに辻の空気を動かし、子どもはすこし未練がましげに紙垂の手をおろした。丸い焼けた顔が、楡の
下に休む白髪の旅人を振りかえった。
「四辻は通り道なんだ」

‥そうかね。
ギンコは立ち上がり、うあ、とひとつノビする。むせる日の暑さと大樹の木陰の涼しさ。ついうたた寝を誘われ、
この空、このていたらくだ。

―ほれ、落とさんよう気ぃつけんとな。

それは周辺の村落の二人か。つや光る野菜を大籠いっぱいに抱えた姿が、よりそうように目前を過ぎていった。
こずえを包む青鈍色の空は光彩も淡く。村人が折れた先をも同じ色にして、みずみずしく広がった。

宿場を諦めたギンコは竹筒から水を飲み、背負いに手をかける。やがて村人らを追って四辻を折れた。今夜は村に
軒を借りるか、お堂に仮寝しようと思う。





こいつあ‥・・

きれいだ。
ギンコは立ち上まった。
少し気温の落ちた夕鈍色の空。
風はゆるく、いちめんの水田が熟んだもやを吐いている。青田と空の境界をしっとりと溶かし、辺りを淡彩に
うるおわせて。
大気の水の奥深くに、村落の灯りがぽつぽつと数珠をつないだように際だってきている。蛙がいちめん鳴きさか
り、まるで人世(ひとよ)ならぬ歩みをふむような夏の宵口。


はるか路の先に、村のほうに行く男の背が見え隠れしている。
そのあとを、ゆっくりと追う。

こんなときにはいつも思う。
─あの里は遠い。

いつか、おれはここから片時も離れられん、化野はそう言った。
こんな美しい光景に出くわせばいつもよぎった。あいつにも見せてやりてえ。
今頃は夕餉をかっこんでんだろか。・・ああ、どんな天気だろうあの海ぎわは。俺が村を立った先だっては、見送る暇もないようだった。宵を楽しむ洒落がありゃいいがな。

もやにけぶる路を行けば、
出向くべきその距離のへだてが、ふるえるほど待ち通しく。

・・どうせ、思う時のほうが長えのだ。
だから、オレは。



ふとギンコは足を止めた。


行く手にまた四辻が見えたのだ。
・・・こんなに村は遠いだろうか。



「ほーう」
ギンコは思わず薄笑いして、楡の大樹を見上げた。
先ほど休んだ下草もそのままに。人の姿はなく、夕風がしずかに揺れる。

―落とさんよう気ぃつけんとな。

野菜籠を抱えた二人が、立ちつくす背中を追い抜き、ゆっくりと四辻を折れていった。



2


‥いちめんの柔らかなもや、なめらかな風が頬にあたる。

「・・・たく、どんだけ行かせりゃ気がすむかね」


ギンコは蟲煙草をとりだし、ゆるりとくわえた。
もやに蟲の気はない。

いちどめは、もういちど。
そのつぎは、道を逆に。
さんどめは、違うほうに折れてさえ、風景がまた変わらぬので引き返すところだ。

四辻は空の鈍色も変わらず。その四方は先刻のままに、霧中にやわらかく消えている。
やがて待ちかねた姿が現れたので、ギンコは静かに横にどいた。
大籠を抱えた村人の姿。

「ほれ、落とさんよう気ぃつけんとな」
「あー・・・ちょっとすまんが、、」

ギンコは口を閉じた。そして、何事もなく去って行く彼らを見送った。
重そうにすこし背を屈めた背ふたつが、よりそって、薄闇のなかに消えるのを。


あー・・・・。
やがてギンコは薄く目を細める。
自分だけがこの妙な場に離され、閉じこめられたのだ。そうは分かっても。
「たく、・・・おまえら巻き込んでくれるな」 
きいたこともない。正体も分からねば、なにをどうすればいいのか見当もつかず、人にとってはタチの悪いものなのか、そうでないかも。

‥狐狸のしわざなら、眉に唾つけろというがね。

おなじ場所、下草つややかな楡の幹に、ギンコは背をぺたりと預け、ふう、と息ついた。
背負いのとなりに歩いた足を投げだす。
なかなか、先へ向かわせてくれぬおつもりのようで。

外の世界は、とうに陽も落ちたろう。
もしこの不思議の正体が、楡の樹よろしく何百年も生きるようなモノでは困る。別の時の流れに巻かれたのでは、人の身はつきあいきれるものじゃない。

気休めの香を起こし、少しの変化も落とさぬつもりで。蟲師はしずかに目を半眼にし、意識をといだ。
白い前髪にゆるやかな風があたる。
蛙たちの鳴く声が、幕のように立ちあがり、四方から身体を包んだ。



─静かだ。
"落とさんようにな"、か。
ふと先刻の言葉がよぎった。



3


・・・まさかこの辻占の謎かけを聞かせるために、何かは俺を籠めたのではあるまいに。
身ひとつ養うなぞ、たやすい。多くはいらぬのだから。
ときに寝食を分けてくれる無数の優しさと好意に体を支えられて旅ゆく、

忘れものをすることもない、、はずだった


・・・不意にゆっくり気づいて、薄暮にすっと目をあけた。

─あいつ。
あれは、俺の出立を見送れなかったのじゃない、見送らなかったのだ。

ギンコは深く息を吸った。
背中。あの。
いるあいだに、もっと話せたし、聞くこともできたろう。なにを見ずに普通に過ごし、なにを急いて立ってきたのか。
ああ・・・悪いことを。


あまりに、慣れすぎたから。
ただ日暮らしし、カラダからめ合うために行くのじゃなかろうが?・・・分かってたのに。

だが、あのクソ医師は、その分かれにも、なにも云わず俺を旅に手放した。


四方を閉ざす稲田の呼気のむこうから、樹下に蛙たちの声がせまる。

俺が落として困るなら、
そいつはたしかに、路銀や、食いものじゃねえ。
人とのつながり
でなきゃ俺はどこの何者でもなくなる、
 れだけだ、

もしここから出れねば。


「ははは・・・・出れなかったら、そりゃー、まんま俺だな」
くく、とギンコは煙草を挟んだままの手を口元に小さく笑った。




「・・たく。なんでもいいから、出せよ、俺をここから」
最後に、つや光るあの板張り。
長廊下に開いたふすまのなか、乳鉢に荒く草の実をくだいた香り。あの背、、俺は汲まずに声かけ通りすぎちまった。 それでもまた会えば、次の新しい風が吹いちまうのか?


ふと頭上に立ったかすかな物音に、ギンコは目を上げた。


ひし、と、それは小さな羽ばたきの音だ。戯れあって樹上へ抜けていく。
「‥‥・・」
音だけだ。いま頭頂からなにか少し抜けた気がするのだが、ぬくもる楡の肌に、深藍色のこずえの連なりに、変わりはない。



4


ふと計を案じた。

ギンコは隻眼をすがめる、そしてある家のなかを思い起こす。清らな青畳の座敷、その奥の縁側からは、いつもちがう色あいの水平線だ。 れから、ついでに、会いたい顔を強く、ひときわぎゅっと。
‥なにも起こらなかった。もやも、薄暮を綱渡るカゴの空も、潤んだ暮六つどきを続けたままだ。
「───ち」
顔をわずかに赤らめた。謎ときは、そう御ラクでもないですかね。

ギンコは最後の煙を長く吐き、ふいにその腕をヒザ先に置いてうすく笑った。
縁先にあぐらかいていつも庭を眺める、香の火を気にし、向こうで診療する医師を待ちながら。靴ではない素足に鼻緒をかけ、ぶらぶら庭を出歩く、のが、好きなのだ。


ひし
ひしひし
連鎖する羽音。ギンコはびくっと身をすくめ、また樹上に目をやった。
半透明の、チドリよりも蝶よりも小さな蟲の群れが、頭上高く離れ、スウと梢の先に消えうせるところだった。


へえ、、こいつは。
「おもしろい」
・・・思いではない。静止した光景でもだめだ。よもや、移動すること、頭が場や時の移動を描く質感を、嫌うか。あの鳥の姿の蟲ら。─海を渡る鳥は格別の勘をもつという、だがこいつらは、間違いなくここに居つく鳥だろう。


そうか。
反射的に目を閉じ、息を吸い、そしてしずかに山の道を行きだした。あの山は、登りはいいのだが、下りの海の側がだいぶ険しくて。

ああ、、、海の音だ。
峠を越えりゃかすかな海鳴りが聞こえる。山の匂い、季節の風向きならば、まれに潮の香も。足もとを確かめ、ひとあししずつ、下りの坂をいく。─ああ、・・俺の影が映ってるな。小さな緑色の沼の横を越える。

かるい羽音は驚くほど無数に耳を圧し、すべての物音がそれで充たされて、ぐらっと体がゆれた気がした。


・・深いこずえのかさなりに、水平線が見えかくれしてる。─もうすぐだ。
ギンコは、軽い吐き気をこらえながら移動をつづけた。
もうすぐ、あいつの家の屋根が見えるあの場所がくる。晴れていれば、まばゆい海のおもてに、甍(いらか)の光をつらねて。、、、ほらな、もうすぐだ。

ばさばさ、ひしひしと次から次に何かが抜け飛ぶのが分かる。変わらずの水気のなか、目の回るようなその感覚。


不意に先ほどの子どもの声がよぎった。
四辻は通り道なんだ。

・・・・ああ、信仰もある。通る人の声は、ときに本当に神託かもしれん。けど、ここは、人はもちろん、風が通るとか、開けたとか、そんな気をもつ所だ。
まれに、ひとつかふたつかは、好んで棲みついたなにかミドリモノのしわざが、人に辻を畏れさせるかもしれねえ。辻隠しを起こすかもしれん。
・・・こんな見つけごと、を、話してやったら、目を輝かせて聞いてくれるだろう‥。てんで歳かさぶった顔で、俺をすこし見守るような、医師のまなざしでも、な。
だからぜひ、ここから抜けてえものだな。
そして、またあいつのところに。






音が消えた。
蛙の声もしない。



・・・・ギンコは、そっと目をあけた。
燃えるような金陽に、思わず目をすがめる。
なめらかな下草に脚を投げて、楡にもたれて、かたわらには背負い。




おうぼうず、じき日も暮れる。そろそろ仕舞いな。
片手を振った旅人の背が、強い金陽のなかに溶けてった。


やれやれ、と、ギンコは呟いた。
「・・・蟲師危機いっぱつ、じゃねえか」

楡のこずえを見上げる。高いこずえは静まりかえっている。
もしや、あれは夢だったかもしれねえ。ギンコは思った。なにか、人の感覚質を喰らうたぐいにも思えるが、、だが、知れば問題なく、
済めばそれでいい。次にまずいときは、またそのとき考えりゃいい。

‥ああ、それがいかんか。
そんなんだから、あいつはたまに怒る。
まして、路ばたで寝て、蟲にとっつかれた、なんぞな。



‥あんたが買ってくれりゃ終わるけどな。
行き交う人かげもそれを最後にとだえて。
最後の客を未練に送る子どものとなりに、人影がさした。

「なー、、それ、俺にひとつ売らんか?」
ぱっと子どもの顔が輝いた。


「ありがとう! ──な、もちっと誰か通るの待つ?おれ、占ったげるか?当たるんだぜ」
「やー・・・・・」
ギンコはぼりぼりと頭に手をやった。
「いや、また今度な」


楡の樹から降る蝉の声は、いつしかやんだ。
「―ほれ、落とさんよう気ぃつけんとな」
村人が通り過ぎるのを、路のわきにどいて譲り、そのあとを追ってギンコは歩きだした。今宵は村家かお堂に宿るつもりで。その先にある、大切なものを落とさぬために。



話賃でもいただこう。あいつから。
せいぜい尾ヒレつけて、おもしろおかしく、あのもやの奇妙な風景を、あいつにな。
ギンコはくすりと笑う。・・・・けれど、この話は、俺はしねえだろう。



はるか遠くに美しく村の灯のともる、鈍色の青田のなかの路。
いくどか辿ったその、もやのけぶる路の先に、かならず、前を見え隠れしながら歩いていた男の姿を。
足を速めても決して追いつかぬその背は、着流しで、短い黒い髪。





・・・楡の樹に夜が暮れる。
四辻は、なめらかな藍色の闇に包まれた。
こずえに隠れる無数の羽音たちが、ひしひしと樹頂に集まり、集まり、そして一羽の大きなおおきな鳥の姿になって、翼をひろげ、そしてたたんで、休まった。

登った大きな月が、その透いた灰色の羽毛を、淡い燐をおびたように艶めかせた。

いつしか、田の蛙たちが鳴きさかっている。






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「謎の蟲名一欄」より『四つ辻酔い(よつつじよい)』

作者様コメントより
CDとかでも、飛んじゃったりして同じ場所だけが繰り返されるのってちょっと不思議なものありますよね。なんかそんな感じが出たらいいなーと思って書いてみました笑。


aka様・投稿


08/07/23-08/10