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円 雷 珠









 坊主と医者と、それから蟲師。
 それはたいそう奇妙な取り合わせであった。







「左様でございますなぁ。亡くなられたご主人様が大切にしていたからと供養に出されたのは…はて、いつ頃のことだったでしょうか」

 首を捻りながら、頼りないふぜいの坊主は桐箱からひとつの珠を取り出した。
 ころりと、手に乗るくらいのそれは、透明でありながら中央に黄金の霞を見ることができた。

「ほー。初めて見る品だな」
「これは…」
「分かりますか、蟲師殿」

 殿、と呼ばれるのは滅多にないことで、ギンコは苦笑いになって化野を見た。やはり化野もそのような顔をするが、またすぐに珠に視線を戻す。
 仕方なく、ギンコも視線を落として息を吐いた。
「んー、これなぁ…」
「何か、やっかいな代物なのでしょうか」
「いや、…ところで住職。この辺りはいつもこんなに梅雨明けが遅いのか」

 言いながら外を見る。
 縁側の向こう、しとしとと雨は一向に止まずもうどれくらいになるか。恵みの雨は嬉しいが、長雨では作物がだめになってしまうと、村人が心配する声があちらこちらから上がっていた。
「今年は特別のようでございます」
「だろうな」
 だったらこれは俺が預かろう、と。
 ギンコはろくな説明もせずに珠を受け取った。
「悪いようにはしねぇよ」
 ぎしぎしと軋む廊下を玄関に向かいながら、珠を上から見る。横から見る。光に透かして見る。頭の中の文献と比べながら、ギンコはひとり納得の表情を浮かべる。
「あの、あの方は…」
「大丈夫だ、心配いらんよ」

 化野の請け負う声が、背後からやさしく響いた。







 その珠を、人里から遠く離れた叢に置いて。
 ギンコは仕事は済んだと言い放った。
「それじゃ分からん」
「じきに分かる」
 細く降り続く雨の中、傘もささずに歩いてきた二人は全身がしっとりと濡れていた。せめて近くの大木の下に避難しようとする化野を、ギンコはにやりと止める。
「なんでだ。こう濡れてはかなわん。帰るとは言わんからせめて雨宿りくらいさせてくれ」
「いいからここにいろって。もうすぐだから」
 風邪をひくだの着物が濡れるだの、ぶつぶつと文句を言いながら。それでもおとなしく傍にしゃがんだ化野の髪をくしゃりと撫でる。
 雨に冷たい髪が、手の中で重く揺れた。
 濡れた髪を触られる不快感と、撫でられる心地よさと。どちらを取ればよいのか判断がつきかねるといったその表情に、ギンコは思わず頬に手を這わせた。
 髪から落ちる雫がぽたりと、手に伝う。

 ぽたり。ぽたりと。

 ゆるやかなその感触は、雨の原にたった二人でいることを意識させるには充分で。普段ならば広すぎる野原は、雨の薄い膜で隔てられたように思われて。
 その刹那、化野の声が上がった。
「ギンコ…!」
 押し殺したような声のその先に、あの珠があった。
 それはもう珠ではなく、形のない霞が濃く丸く広がり。その中に。

「なんだ…、あれ…」

 黄金色の霞をまとい、二度三度うねってゆっくりと空へと駆け上がってゆくあれは。
「龍だ」
 話には聞いていたが、文献も読んだことはあるが、ギンコも実際に見るのは初めてであった。
 驚く人間二人など眼中になく、空を睨み天へと昇りゆく姿は恐ろしく気高く。ただただ圧倒されるばかりだ。
 真っ直ぐに。天へ。
 帰り行く先は雲の中か。更に上か。
 黒雲に飲み込まれた龍を待っていたかのように、雷鳴がひとつ鳴り響いた。またひとつ。あれは生まれたばかりの龍の声か。

 雲が濃くなり、一気に辺りが暗さを増した。

「化野。着てろ」
 ギンコは羽織っていた薄手のコートを化野に渡し、頭から被るよう促した。
「いらん」
「着てろ。じき大雨になる」
 その言葉を待っていたかのように、辺りの梢にあたる雨音が強くなる。そして。
「うわ!」
 ざんざんと。
 容赦なく雨が叩きつけだした。

 轟く雷鳴と、滝のような雨。

 もう他に見えるものはなく、さっきまでそこにあったはずの木々も草木も。地面さえ雨に掻き消されるようだった。
 何もない。
 聞こえるのは雷鳴。
 見えるのは稲光。
 ただそれだけで。何もかも流されてしまうような土砂降りの中で、確かなのはかすかに寄り添う互いの体温だけで。
 それさえも、雨に流されてしまいそうだった。

「天のものは天に返してやらんとな」
 季節が巡らねぇ。

 ギンコの言った言葉が聞こえたかどうか。化野はさっきとは比べ物にならないほど濡れるのも構わずに、遠くの稲光を眺めていた。
 季節は巡り、夏が来る。
 人の手から開放された雷光は、こうも自由に鳴り響くものなのか。

 夏が来る。夏がくる。
 轟け。鳴り響け夏を呼べ。
 これが最後と降りしきる雨は、やわらかい地面に穴を穿って季節の終わりを知らせた。






 夏が来る。





 ***






「謎の蟲名一欄」より『円雷珠(えんらいじゅ)』

ゆの様・投稿


08/07/22