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痴レ花枝








 手鞠花の咲かぬ土地があるという。
 色様々に変化する、手鞠を知らぬ人がいるという。
 根付きやすく、およそどんな土地にも色をもたらす花ではあるが。咲くことを忘れたかのように、今はただ青々と葉が繁るばかり。







 そこがどれほど荒れ果てた場所なのだろうと、想像しながら旅をしていたから。豊かな畑の緑と、鮮やかな花々に迎えられたときは驚いた。

「これが件の土地かい」

 タバコの煙を細く吐きながら、ギンコは傍の案内人に疑いの目を向けた。
「ええ。他の作物は豊かだけれど、紫陽花だけが咲くことができないのだと最初に言ったでしょう」
「あー、聞いたような気がするが」
 聞いてはいたが、花が咲けぬというから自然と荒れた土地を思い描いていた。
「しかしこりゃ別に困らんのじゃないか。作物が豊富なら花がひとつ咲かんくらい、どうってこたぁないだろう」
「ええ。まぁそうですが…」

 ここまでギンコを案内してきた男は、少しばかり口ごもった。この土地の者だと言う男の風貌は町にあっては浮いていたが、確かにこの田舎には自然に溶け込むようだった。
「我々は構わないのですがね」
 話しながら、小さな家へと誘われた。湿った木戸をがらりと開ける。


「父ちゃん…!」


 おかっぱ頭の幼い少女が、目を輝かせて振り向いた。
 明るい色の着物が、そこに咲いた花のようだと一瞬思う。
「そのおじちゃんが鞠の花を見せてくれるの?どんなかな。やっぱり鞠みたいなの?花なのに?おじちゃんが咲かせてくれるの?」
「いや…、ちょ、お前…」

 矢継ぎ早に無垢な瞳で質問攻めにされ、ギンコは困惑して男の顔を見た。少女は、手に可愛らしい鞠をひとつ大事そうに抱きしめている。
 表面に紫陽花の花弁を模様としてあしらった、細かい細工の品だった。







 話を聞けば、体の弱い一人娘に紫陽花を見せたくて蟲師を探していたのだと言う。

 土産に買ってきた鞠が紫陽花のようだと言ったはいいが、そういえばこの土地で咲くのを見たことがないのだと。

「だからこの子に一度見せてやりたいと思ってな」

 よく探してみれば、木はある。なのに、花が咲かぬ。
 土が悪いのだろうと、隣の村から切花を持ってきても村の入り口で枯れてしまう。どうしても村の中に花が入れぬのだと。

 それは、どうにも奇妙なものだった。

「お前…、だったらもっと早く説明しろよ」
「悪い。なんだかな、娘のためにというのがどうにも気恥ずかしくてな」
 ふい、と横を向きながら謝罪の言葉を口にする男が可笑しい。
「何を笑っている」
「なんでもねぇよ」

 紫陽花の葉を調べながら、ギンコはもう一度小さく笑う。
 土を見て、幾つかの紫陽花を見て。林の奥の、枯れて捨て置かれた紫陽花の枝に辿り着くまでに、そう時間はかからなかった。
「これが巣になってるんだ」
「蟲のか?」
「ああ。そこら中にいるよ。普段は花の咲くのが少し遅れたりする程度の影響しか出ねぇんだが…こりゃちと増えすぎだ」
 そのために、土地まるごと変調をきたしていたのだろう。
「どうすればいい」
「なぁに。集まりすぎたのを散らすだけだ。難しいことじゃねぇ。来年にはきっと見事な花が咲くよ」

 に、と笑ってやれば、そうかと安心したような声を出す。けれど、その声はどこか沈んでいて。
 蟲煙草の煙を嫌い、ふよふよと蠢く蟲たちの軌跡を眼で追いながら、ギンコはああそうかと思い至る。
「お前さん、娘に見せたかったんだものな」
 もうとっくに花の時期は終わっているけれど。それでも見せてやりたかったのだろう。そうか、と思う。

 けれど、それはどうしようもないことで。
 自然を曲げて花を咲かせられるほど、蟲師は万能なわけではないから。
「なぁ、花は無理だが…代わりのものならなんとかなるかもしれん」
 不思議な顔をする男にギンコは、今夜娘をここに連れてこれるか、と聞いた。








「来たぞ」

 娘を背負い、暗闇の中歩く男はどこに声を掛けてよいのか分からぬままに声を発したようだった。
 新月の、あまりに暗い闇は、土地勘も距離感も奪い去っているのだろう。今自分が立っているのが地面なのか、別の何かなのかさえも不安になるほどだ。

 それでも背中の娘を不安にさせないように、努めて何でもない声を装って。
「おう、ここだ。その子はなんともねぇか」
「ああ」
 安堵したような声は、一瞬凍りついた。真っ暗な中、紫陽花に囲まれるように立つギンコの周囲が、人の形にぼんやりと光っていたからだ。
「お前…それ」
「大丈夫だ。煙に燻されて旅立とうとする蟲が、仲間への道しるべに出す光だ。驚かせて悪かったな」

 きっと二人の目には、薄紫にやわく光る人影が、ゆらりと動くように見えるだろう。
 近くに寄って娘へ手を伸ばせば、少しだけ気恥ずかしそうに幼く笑う。

「恐く、ねぇか」
「うん。…きれい」

 いい子だ。やさしく頭に手を置いたその先から、光の粒が少しだけ跳ねて娘の髪先で揺れた。

「じゃあな、見てろよ。これから鞠の花を咲かせるから」

 大きく息を吸い、一気に蟲煙草の煙を吐くとギンコの周囲にあった光たちが一斉に離れた。
 それから暫く迷っているかのように空中をやわらかく飛びながら、いつしか枯れた紫陽花の上に幾つかの塊に別れて降り立ったようだった。

 静かに、けれど急ぐように。
 薄紫の光が、ぽつりぽつりと枝にとまる。新月の暗闇の中、見えるのは紫の花だけで。

 それはまるで、本当の花のようで。

「きれい」

 娘の口から思わず漏れた言葉に酷く満足し、いったんタバコから口を離す。
 途端に飛び立とうとする光をもう一度、煙で戻せば。薄紫の花が灯って揺れた。

 灯火の花が咲く。

 もう生命を持たぬ枯れ木を宿にして、巣食っていた蟲たちの花が咲く。
「きれいだな」
「だろ」
 ぽつりと交わされる会話は、蟲のいない闇のほうへと溶けて消えた。








「ありがとな」
「いや、こんくれぇしか出来るこたぁねえからな」
「なに言ってる。十分だ」
 町まで見送るという男の申し出を断って、家の前で別れた。
 もうこの土地は、暫く変調をきたすこともないだろう。来年は手鞠花があちこちに咲いて、人々を驚かせるのだろうか。
 その頃にもう一度来てみてもいいかもな。
 木箱を背負いなおし、ギンコは霧にけぶる遠い山を見上げた。梅雨も、もう明ける頃だろう。

 ギンコの頬をかすめるように、痴レ花枝の蟲達が風にさらわれていった。



 ひとつふたつ、光りながら。





 ***







「謎の蟲名一欄」より『痴れ花枝(しれはなえだ)』

ゆの様・投稿


08/07/22