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苔 童 子
屋根のあるのが珍しくて、イサザは畳に仰向けでいた。畳だとて珍しい。草の床、空の天井が、生涯ワタリらの住まいだからだ。まだ十になるならずのイサザには、屋根も床も柱も戸も、すべてが何か物珍しい。だのに、そろそろ昼になる刻、そこからつまみ出されて外へと、追いやられてしまった。
建物の外は、草の床、空の天井。でもそれは何処も少しばかり作られた感があって、それを「庭」と言うのだと、イサザのどこか遠い記憶が教えている。
もしかして昔、こんなとこに、住んでいたっけか、俺。
…判んねぇ。どうでもいいや。
草を蹴って「庭」の隅へと歩き、柵も区切りも無いその外へ出て行くと、その向こうは、慣れ親しんだ「山」。視野の一箇所に目を留めて、イサザは目を輝かせた。好きなものがそこにあったからだ。いいや「居た」からだ。
苔の生えた大岩の陰、その岩から零れたように緑の広がる其処に、ひょろりひょろりと幾十かの細い茎が生えてきている。
「苔童子だ…! へぇぇっ、こんな山の端っこにもいんだな、こいつら」
つい声を上げて喜んで、それから建物の方を振り向くが、そこにイサザがいることも、上げてしまった声も、誰かに咎められそうな様子じゃない。長のじいちゃんは今、あの、いけ好かない一族のヤツと話をしてる。呼びつけられてこんなとこまできたのも、そのせいだ。
イサザはふるふると首を振って、腹の立つことを頭の中から追い出すと、そこに腕と臂を付いて這いつくばり、まるで動物のような仕草で岩の後ろへと回った。思ったとおり、そこにも苔童子がびっしりだ。
風など無いが、まるで小夜風に吹かれているように、苔童子は右へ、左へ、後ろへ前へとゆらゆら揺れている。イサザの指の爪よりも小さくて、獣の毛のように細く頼りなげなそれは、実は光脈筋にあると様子が違う。
もっともっと丈を伸ばし、茎は細いままでもその先端に金色の小さな蕾をつけ、その花が開くと同時に歩き出すのだ。二本の細い足を出し、それまで繋がれていた苔の地面から自由になって。
「光脈筋が、ここ、通ればいいなぁ。そしたらこいつら歩き出すんだ」
さらに這って、苔の敷き詰められたところを、どんどん進んでいき、苔童子の生えている場所を探していくイサザ。と、いきなりその顔が、悲しそうに曇った。目の前のある草履の足が、一番見事に生えているその蟲等の群生の真ん中を、無造作に踏みつけている。
「…あぁーっ、お前っ、その足退けろよっ」
地についていた臂をそこから離し、やっと少しは人間らしい姿勢になって、イサザはその足の持ち主に抗議した。険しく顔を上げて見れば、その足の主は、イサザと一つ二つしか年の変わらない子供で、彼の剣幕にただただ慄いている。
「あ、足…って…」
「お前、そこ蟲がいんだぞ。判んねぇのか、踏んでるってのっ」
蟲、と言った途端、黒っぽい色の着物を来た子供は、おろおろと足を右へとずらす。が、そこにも苔童子は生えている。
「そこも駄目だろ、お前、見えねぇのっ?!」
「…う。み、見えない…んだ…」
蟲はそれを見られるものと見られないものがいる。だからそうして怒られても、言い返す事だって出来たのだが。子供は項垂れて、岩に座ったまま、その片足を持ち上げて、それをどこに下していいか判らずに、なんだか泣きそうな顔になってしまっている。
「あ、そか。見えねぇんだ。お前。じゃあ…さ、俺も悪かったよ。俺さぁ、こいつら苔童子が好きでさぁー。そっち、そっちの苔の無い石んとこなら居ねぇから、そっち座ったら」
言われるままに急いで退いて、子供は、ごめん、と素直に詫びた。その傍に行って屈んで、イサザは無邪気に話を始める。気付けば年など近くて、こんな年の近い子供と会ったのも暫くぶりで、暇な間、話がしていたいと思ったのだった。
「あんなぁ、苔童子ってこんなんだぞ。いいか?」
着物が汚れるのなど一向気にせず、細かな石に膝を付き、その石を手のひら二つ分ほど横へと退けて、イサザはそこに枝で絵を書き始める。曲がった枝で書いた絵は、あんまり上手でもなかったし、線は曲がっていてよく判らなかったが、彼が「それ」を好きなのだということは、誰が聞いてもよく判る。
なんだかおかしなヤツだと思いながら、聞いている子供も引き込まれて、いつしか身を乗り出して、続きをもっと聞く姿勢。
「なー。面白いだろー。でも見えないんじゃつまんねぇな。お前にも見れればいいのに。あ、そういやお前、なに? この家の使用人の子かなんか? 名前は?」
「クマド。薬袋の家の」
「…え。お前、薬袋一族のヤツなの…? いや、嘘だろ、それ。だって蟲見えないんだろ?」
イサザは眉をしかめてそう言った。薬袋の一族のことは嫌いだから、そうじゃなきゃいい、と、そうも思った。だがクマドは項垂れて、どんどん小さくなる声で呟く。
「だから、情け無い…って、よく言われてるんだ…」
「…ふーん……。別に、いいんじゃないか。見えなくたって。知りたいんなら俺が聞かせてやるからさ。薬袋の、っていうんなら、もしかしてまた会うかもしんないし。な、一度会ったら一個ずつ、俺の好きな蟲、教えてやるよ、な?」
「うん」
「じゃあ、苔童子の説明の続きな? 凄いんだぞー、金色の蕾が咲くとなー、こいつらみんななぁ」
その時、建物の中から声がした。クマドの名を呼ぶ声だ。それまで少しは楽しそうにしていたクマドの顔が、その一瞬で曇って暗くなる。呼ぶ声は続いている。
「……」
「呼んでるな」
「……うん」
「…また会えるって。クマド」
会ったばかりなのに、昔からの友に言うように、イサザはそう言った。
「俺はイサザ。旅してるワタリに会ったら、その群れの中を探してくれるだろ? そうすりゃ会えるさ」
不器用に戸惑いながら、それでも微かにクマドは頷いただろうか。そうして彼は立ち上がり、ふと問うように振り返ると、イサザは苔童子の生えて居ない場所を、指で弧を描くように指し示してくれた。
教えられた通りの場所を忠実に、その蟲を踏まないように歩いて遠ざかるクマドと、それを笑いながら見送るイサザ。
見下ろすと、苔童子は何事も無かったように、
右へ左へ、前へ後ろへと、吹く風を作り出すかのように、
揺れ続けているのだった。
***
***
***
ここは光脈筋。
クマドは足元に歩くものを、淡々と眺めていた。苔童子、金色の蕾を開かせて、二本の細い足のようなものを、交互にゆっくりと動かして、群れになって進む蟲だ。その進む先を視線で追うでもなく、興味深く眺めるでもなく。ただ、足を止めて木箱を置こうとするその時、少し脇へ逸れ、小石の多い場所に下す。そんな様子を、上から眺めているものがある。
葉の生い茂った木の上の、太い幹の上に体を伸べて、イサザが彼を見下ろしていた。
「なぁ、今日はどんな蟲の話を聞かそうか? クマド」
「…いらぬ。お前より、俺の方が余程詳しい」
そりゃあ、そうだ。今じゃぁ、お前は薬袋の蟲師。俺は変わらずワタリで、蟲の知識には埋められない差が生じた。それでもイサザは会うたび、昔を懐かしく思い出して言うのだ。
蟲の話を聞かそうか、と。
そうして
二人の視線の前を、苔童子は行く。
何事もなかったように。花を揺らして、二本の足で。
終
「一から創作蟲」の『苔童子(こけわらし)』
作者コメントより
るんた、るんた…とばかりに、きっとテンポよく歩いていくのですよ。この苔童子たちは。可愛い姿を想像してくれたら嬉しいです。
惑い星・投稿
08/07/15