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ナガレゴエ



つらい、という言葉は捨てた。


さらさらと音を立てて風が、草を木を、花を撫でていく。ゆるやかなときの流れ、沈み行く陽の光。朱に染めた空を烏が鳴きながら飛んでいき、あの烏にも帰る場所があると思うとうらやましく思えた。
岩に腰掛けたまま、片足をさする。重い足は動かず、まさにただの錘でしかない。しかしそれを切り捨てようとは思わなかった───────ただし、今はという言葉がつくけれど。



「お前、少し変わったか?」



その男は言った、蟲師がよく嗜む独特の煙草を銜えて。曖昧に答えると男は薄く笑みを作る、いつもそうだ、穏やかに笑う。
「いいことだ」
変わらないものなんてない、ヒトもモノも、少しずつ目には見えていないところで変わっているのだから。それを聞いて言いたくなった、けれどやめた。


自分を変えたのだとしたら、それはお前のせいだ。お前の声、仕草、そして話す数々の生命。お前はそれをいとおしそうに当たり前のように、けれど切ないという顔をして私に話すのだ、私の前で笑うのだ。私はそれを聞いて、見て、ただおもう。
お前の目には私はどう映っているのだろう、ただの女か、それとも足の不自由な人間か、……それとも大きなものを背負わされた哀れなものに映るのか。


聞いてみたことはない、怖くて聞けやしない。お前が来ればいつもどおり話を聞かせてもらい、そして書を見せるだけだ。いや、ときどきここに、この丘に連れて行ってくれるな、それも私が頼んでのことだけれど。


最初はこの気持ちがなんなのか気付くことができなかった、初めてだったのだ、おもったのも、のぞんだのも。
最初はそれに戸惑い、迷い、見なかったことにしようとした。けれどそれは疑うところもくもりもなく、ただただ私にその存在を知らせるのだ、そして訴えるのだ、きちんと見ろと。向き合えと。


私は向き合うことにした。
だから少しずつ、変わることができた。


杖をついてなんとか立ち上がり、夕闇に包まれていく空を見る。この空の向こうできっとお前は生きているのだろう、もしかしたら誰かのもとでこの空を見ているかもしれない、それでもいい。
「   」
ざっ、と風が音を立てたのでそれに合わせて口を開いた。思ったとおりその言葉は風に乗り、奪われた。それを見送って思うのだ。


風よ、蟲よ───────ナガレゴエよ。
その言葉を持って行ってくれ、その言葉があいつに届かぬように、聞こえぬように。私のおもいとともに、どこまでもどこまでも、ずっと遠くへ。


闇に覆われた丘で、私はその蟲が消えていった場所をずっと見ていた。
小さな風に乗せて、木の葉を巻き込み言葉を巻き込んでそれは消えていった。遠いどこかへ、あの雲の向こうへ。


いつか決意をしたとき、それまでは。
───────どうか私の心を、預かっていて欲しい。






                おわり





「謎の蟲名一欄」より『ナガレゴエ(流れ声)』

作者コメントより
ナガレゴエは声を流す蟲、流された声も取り返そうと思えば取り返せます、たぶん(ぉい/笑)
きっと風の気まま、蟲の気ままに飛んでいったのかと思います(笑)

JIN・投稿


08/07/14