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八 間 炉


 ぼう  と
 ひとつの田に 火が灯った
 その火は見る間に広がって
 一間 三間 八間 もっと
 一つまるごと 田が燃える
 
 そのように見えた


 どういうことと、先に知らねば騒いでいるところだ。以前、祭主と呼ばれていた男は一人で笑い、山から下る斜面の道で、一人酒の盃に口を付けていた。だが、まあ、こんな夜中でも気付いて騒ぐものがいるかも知れん。悠長にしてもいられぬ。
 速足に斜面を下りていき、以前の己の住まいに着けば、丁度目の前にある木の戸が開いてサネがそこから飛び出して。

「う、わっ…!」
「サネか、まぁ、落ち着け。あの火が見えたのか」
「さ、祭主さまっ!」
 緊張に引き締まっていたサネの顔が、安堵と嬉しさとのせいで脆く歪んで、まだ少年と呼べる年の彼は、縋るように目の前の男を見上げる。
「今の祭主はお前だろう。俺の事は名前で…イナと、そう呼べと言ったぞ」
「はい。…あ、っ、あの火は…ッ」
「あれは蟲だ。八間炉というらしい。田が一枚燃えて見えて、まるでそこだけが燃え盛る炉の中のようだろう。だが本当に燃えているわけじゃあないのだと、ギンコに聞いた」
「…ギン、コ、さんに…?」

 奇妙に途切れた言葉の、その途切れの意味を判らず、その時はイナはほんの少しの違和感を感じていた。
「前に別の土地でもあの火を見てな。その里では、蟲の見えるもの見えないものが、皆で大騒ぎで田の火を消そうとあれやこれや、やっちまって、結局、その田を荒らしただけだったが…」
 あぁ、そら、これがそれを教えてくれた文だ、とイナは懐からシワの寄った紙切れを出してサネに手渡す。サネはそれを丁寧に広げて、片手にあった手燭の火を寄せて読んだ。


 文は見た。
 早速だが、その蟲の事を以後に綴る。 

 八間炉とは
 田畑に突然燃え広がる炎の姿。
 一刻ほどで火は消えて、後には何の変化もない。
 だが、本当は、稲や作物が病にやられている時に現れ
 その病の元を喰っているとの説。
 田畑を持つものにとっては、喜ぶべきものと言える。
 気付いても騒がす置き捨てるべし。
 豊作、期待するもよし。

 時に、
 その身に変わりはないか、イナ
 日々に疲れを感じずとも、体を厭えよ。
 魂は光酒に近しくとも、体の半ばは「ヒト」だ。
 何かあればまた文をくれ。
 待つ。

   ギンコ


「判ったか、安心したろう、サネ。……サネ?」

 返事が無いので、もう一度名を呼ぶ。それでも返事は返ってこない。イナは視線を落とし、隣に立っているサネの顔を眺めた。サネはその、まだ幼く見えるほど若い顔に、何かを堪えるような表情を浮かべて、じっと手紙に見入っていた。
 手燭の火は、小さくて朧気だ。それこそ、四方八方を一度に照らす「八間」のような目映い灯りではない。それで手紙の文字が読みにくいのかとも思ったが。

「祭主さま…」
「イナと」
「イナ…は、ギンコさんと、あれから?」
「…あぁ、会った。一度目は偶然に、それから連絡の手段を聞いて、二度、三度…。あの男はあれで、俺を「こんな」ふうにした責任を感じているのだろ。で、どうして聞く? サネ」
「ただ…元気でいるのかな、と…思って」
 違和感を感じながら、ただ、淡々と、お前もなのか、とイナはそう思った。蟲に半分なってしまったこの身はギンコに惹かれるが、そんな自分だけではなく、この、まだ大人にもなり切っていない、サネもなのか…と。

「次に連絡を取る時に、イナ」
 サネは言った。
「たまにはこの里にも寄って欲しいと、伝えてください。サネがここで、ギンコさんを待つ、と、そう、言ってたと」

 その視線の先で、遠い田の炎は、ゆらゆらと朧に消えかかって揺れていた。消えそうで消えないその火が、やがてはすっかり消えても、その蟲の影響は土に濃く残るのだという。

「まぁ、言っとくが、根無し草だしな、ギンコは」
「それでも、伝えて下さい」
「あぁ、判ったよ。…伝えるだけは、な」

 チリチリ、チリチリ、小さな火が胸で灯って燻る。あの男は誰のものにもならないだろう。ただ、自責の念で俺を気にしているだけで。だからサネの言葉など気にしないだろう。それとも思いの他優しい気質で、待たれていると聞けば、くるのか、ギンコは。

「根無し草だよ、ギンコは」
 もう一度言うと、サネは何かを感じた顔して、じっとイナの顔を見上げる。
「ギンコさんは、イナに…祭主さまに何処か似ているから、気になるんだ、俺。でも俺までここを離れて会いにはいけない。この里の祭主は、俺だから」

 田の火は、いつの間にか消えていた。サネは自分から家の中に戻り、小さな手燭の火の傍で、丁寧に日誌を書き始める。


 七月七日、明け待ち宵。
 シチロウの六番田に赤き炎。
 蟲「八間炉」の炎にて、
 イナと共にその炎が消えるのを見守る。
 実り、他、良く兆す説あり、
 記録怠ることなかれ。


 イナはそんなサネの横に座り、まだ湿っている盃に、ついさっき飲んでいた酒を注ぎ、何も言わずに差し出した。それを受け取って、く、と飲み、サネは自分の傍らに置いていたギンコからイナへの文を、小さく頭を下げて彼へと返した。











「謎の蟲名一欄」より『八間炉(はっけんろ)』

作者コメントより
「田畑を焼く蟲にしよう!」と思ったものの、それ以外決めておらず、ちょっと迷ってしまいましたー。え?焼き畑農業?←違。でも田畑にイイということだしね。
ワンポイントメモ。八間 →  大形の釣り行灯。明るいので、揚げ屋・寄席などで用いた。八方、とも呼ぶ。

惑い星・投稿


08/07/05