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チャバシラムシ
「よぉ、化野」
「あ、あぁ、ギンコか」
ギンコが来た時、化野は何故だか酷く暗い顔をしていた。
理由を聞けど何も言わない。ただ、いつものように、よく来たなと言ってくれ、熱い茶を二人分入れた後、ちょっと…と言って立ち上がって、どうやら蔵へ行ったふうだ。
蔵、といえば、化野の収集品が山ほど置かれている。つまり彼は、何か珍品のことで思い悩んでいるか、何か下手をやらかしたのだろうと思う。入れてもらった茶を片手に、蔵の見える場所まで出てみれば、少し開いた戸の内側から、ふわりと何かが出てくるのが見えた。
ありゃあ、蟲だな。なんて蟲だっけ…。
見た目は蜻蛉。でも酷く透き通っていて、蟲の見えるギンコが目を凝らしても、やっと見えるか見えないか。それが目の前まで飛んできて、ギンコの持つ湯飲み茶碗の縁に、一時とまって翅を休める。
そうして茶の湯気を身に浴びると、ほんの僅か体に緑の色がついて、少しは見えやすくなった。ギンコがその蟲を見ている間に、化野は蔵から戻ってきていたらしい。間近から彼の顔を見て、力なく苦笑する。
「なんだ。ぼんやりして」
ギンコを見てそう言っている化野の方が、余程ぼんやりして見えた。
「ぼんやりはお前だろう。どうした。何を買わされた。でもって、それを逃がしたかどうかしたろう。えぇ? 図星か? 先生」
「…っ! う」
「嘘が付けねぇな、化野」
言葉を失って、その後、化野はくたりと項垂れる。かなりこたえているらしいが、ギンコにはその落胆を慰めてやる用意がある。
「買ったのは湯飲みだろう。皿か茶托か盆の上に伏せられていたんじゃないのか? それでそこに蟲が宿ってると聞いてつい手を出した」
「な…。どうして知ってる」
「なぁに。その蟲が、今、この湯飲みにとまっててな」
それを聞いた化野の驚きようと言ったら。あんぐりと口を開け、目を見開いて顔を突き出し、ギンコが手にしている湯飲みを、穴のあくほど凝視する。だけれど、ただでも蟲の見えない化野に、こんなに見えにくい蟲なんぞ見える筈が無い。
「ど、どっ、どこに? どこだっ?! つ、捕まえ…っ」
「そいつは断るね」
「なんでっ?! それは俺が買ったんだぞ」
ギンコは派手に溜息をついて聞かせ、湯飲みを持ったままで縁側に腰を下ろした。そうして化野へは、隣に座るようにと身振りで告げる。
「また懲りちゃいねぇみたいだけどな、あの硯の一件。まぁ、この蟲は特に害は及ぼさねぇから、持ってても構わないと言いたいが、閉じ込められ、その間ずっと餓えてる蟲を思えば、捕らえる手伝いは嫌だ」
どれだけちっぽけだったとしても、蟲だとて一つの命だ。
そうと生まれたからには、生きたいように生かしてやりたい。
その思いが、化野に届くかどうかは判らないが。
いいや、届くだろう。なにせ医家なのだ。曲がりなりにも。
「み、見ることも出来ないってのか…せっかく…」
「一目見るだけでいいとでも?」
「いい。このまま逃げちまうよりは、それで」
「そうか。まぁ、そう言うんなら」
小さく笑って、ギンコは縁側に座ったまま、踏み石の上に脚を投げ出し、のんびり構えて指図する。
「茶ぁ、入れろや、先生」
「? 茶ならまだ入ってるじゃないか」
「冷めた。それに茶の香りはもう蟲に取られたし」
覗き込めば確かに、湯気の一つも上がっていないし、湯飲みの中の水はただの真水のように見える。
「湯飲みをありったけ出して、五でも十でも入れて、この板の間に並べてみるといい。それがこの蟲の気にあえば、姿を見せてもくれるかもなぁ」
「…よ、よし判った! 待っててくれ!」
言葉の後ろの、待っててくれ、は、どうやら蟲に向けて言ったらしい、ギンコの手にある湯飲みへと顔を近付け、二つの目が真ん中に寄るほど凝視してった。
それから化野は蔵へ行き、盆の上に九つの湯飲みをのせてくる。そうして奥の部屋へも行って、さらにそっちから六つの湯飲みを。珍品らしいのから、普段使いのから、合わせて十五の湯飲みを水で濯ぎながら、台所で湯をたっぷり沸かし、茶筒も二つ出してきて。
丁寧に心を込めて、美味しく入れられるよう、零さないよう、一つ一つ湯飲みを茶で満たしてゆく。
十五個の湯飲みの全部に茶が注がれるのを待たず、ギンコの湯飲みの上の蟲は、薄翅を震わせて飛び立ち、茶のいい香りの上をゆらゆら飛んで、幾つかの湯飲みの上で身を休めた。
ギンコの目には、蟲がゆっくり少しずつ、緑の色に染まっていくのが見えたが、それでも化野には蟲の姿が見えていない。ギンコの視線の先を見つめて、必死で目を凝らす化野が、情けない顔で泣き言を言いかけたその時のことだ。
「お、いいぞ。その右端の湯飲み」
「な…なんだ、それがどう…」
「茶柱が立ってる」
「…本当だ、こりゃ珍し…。あ、ぁぁ…」
化野は声を上げて、板の間に手を付いてその湯飲みににじり寄った。黒に淡い金の粉で絵を描いた、少々派手な絵柄の湯のみだが、その縁に確かに何かがのっている。うっすら緑色の蜻蛉か何か、そんな姿。半分透き通っていて綺麗だ。
「…こ、これがその蟲か。…なんて名だ…?」
「チャバシラムシ。茶の香りと味を喰うのだが、茶柱が一番の好物でな。それを得ると、やっと子が産めるんだ。ほら、産んだ」
「えぇっ、ど、どれ…っ?」
さらに目を凝らす化野の目の前で、唐突に、その蟲の四枚の翅が零れて落ちた。それに一瞬遅れて、姿が見えなくなってしまう。落ちたはずの翅も無い。その蟲がいた辺りに、茶の粉のような小さな緑の煙のようなものが、ふうわりと漂い、そうしてそれも、空気に流されるようにして消えていく。
「消えた…。し、死んだのか? 子とやらは何処だ? な、何か悪かったのか…? 俺の入れた茶のせいか?」
「子はな…。今の緑の粉がそうだ。空気に乗って旅立ったんだ。親は死んだが、子を生したんだから、いいんだ、それで」
「い、いい…って、死んだんだろう…。何が…」
ギンコは手にしていた湯飲みを化野に差し出し、首の後ろを掻きながらのんびりと笑っていた。
「だから、それが命の営みってやつだろう。人も蟲も同じだ。なぁ、化野、もう一杯、茶ぁ、くれ」
飄々としてギンコは言う。長い間閉じ込められていたのだろう蟲を解き放ち、子を生すという本能を叶えさせてやることが出来たのだ。化野は複雑な気持ちかもしれないが、ギンコはすこぶる満足だった。
やがて茶が新しく入れられてくる。それを受け取って一口二口と飲み、ギンコはごろりと横になった。板の間に頭を付けると、山ほど並んだ湯飲みが目の前に見え、それが邪魔で視界は遮られている。。
少し離れて化野も横になり、片手で一つ、一つ、と湯飲みをずらし、その向こうからギンコを見た。に、と笑って目を閉じ、そのまま笑いつつ化野は言った。ちょっと無理しているようにも見えたが、満足そうな笑みだった。
「あぁ、蟲助けか。いいことしたなぁ…」
縁側には茶のいい香りが、しばし漂っていた。
終
「謎の蟲名一欄」より『チャバシラムシ(茶柱蟲)』
作者コメントより
子を産む蟲を書きたかったんですけど、子らしい子ではなかった。笑。死ぬとき翅が取れるところは、知る人ぞ知る、某「華蜻蛉」と似た種類かもしれませんぜ。ワハハ。
惑い星・投稿
08/07/01