ちりーん、と涼しげな音がした。
ガラス細工の風鈴が、ひと風浴びて鳴ったような、そんな音だ。これが鳴るのはそれがそばに来ていること、そしてそれは同時に危険だと言うことを知らせた。すぐさまその場から離れようとしたが、足元にぽかりと真っ黒で丸いものが現れる。
平らに見えるそれは足元の地面から、いっきに辺りへと散った。まるで大きな水玉をひと息に破裂させたような様だ。
「…ちっ」
つい舌打ちが出る。辺りは一瞬で闇に覆われ、その中に眩しく光る無数の灯り。白、黄、青、赤、紫と色も大きさも無限。そして頭上には煌々と輝く大きな丸い月───────夜になったのだ。
さっきまで太陽が照りつけ暑いくらいだったのに、一瞬にして闇にされた。しかも足元の下にも星が輝き、まるで夜空の中に放り投げられたような光景だ。こうなればアレを見つけるしかないのだが、それはあまり乗り気ではなくその場に立ち尽くす。
無駄だとは思うが、狼煙でも上げてみるか。
背負っていた荷から入れ物を取り出し、開けて中から枯れ草のようなものを取り出す。それをあるかないかわからない地面に置き、火を近づけた。すぐに細く白い煙が、上へと上っていく。
それをぼんやりと見上げていると、足音が聞こえた。なぜ夜空で足音が聞こえるのかという疑問はあえて持たずにそちらに目をやる。
現れたのは、男だった。
「なんだこの現象は。蟲か?」
そう言って男は隣に腰掛ける。黒い髪、青い着物、そして右目にモノクル。人懐こい顔でそばに寄る男からは、いつだったか嗅いだ潮の香りがした。
「蟲のせいなら楽しいな、おいなんて蟲だ」
「……知らん」
「知らんなんてことはないだろう、お前が」
明るく言って男は笑う。こちらが話さなくとも、あそこに見えるのは「なんとか七ぼし」だ、とかしきりに話し、わけのわからないところは相変わらずだった。火が絶えないように気をつけながら、それをただじっと聞く。
「この間お前が来たときに喰った魚な、実はあれは俺が釣ったんだ」
「知っている」
「海に落ちて大変だった」
「……知っている」
男が言っているのは先日蟲師の知り合いに連れて行かれたときのことだろう、男は歓迎しそして海で魚を捕ると意気揚々と出かけた。海が騒がしいので見に行くと村の子どもたちと騒ぎながら釣りをしている男がいて、大物が釣れたと喜んだ矢先に海に落ちた。
見ていたから知っている、男はそうかと笑ってまた別の話を始めた。取り留めのない会話に相槌も打たずに黙って聞く。
「お前は、寂しくないのか?」
話が途切れたころにふと男に聞かれた。まさかそんなことを聞かれるとは思ってもいなかったので、ただ無言で彼を見つめる。こちらをじっと見つめる目は黒く、しかし周りの星をその中に映しこみ、美しく輝いていた。
「……なぜそんなことを聞く」
答えたくはないのに、つい口を開く。男は膝を丸めて抱くように座り、夜空を見上げてまぁなぁ、と笑った。
「ただ覚えていて欲しいだけだ、ひとりでいるときも、人の中にまぎれているときも───────もちろん、あの中にまぎれてしまうときも」
その言葉に返す言葉もなく、ただ男を見つめる。あの中とは何だ、と聞こうとして、しかし口を開くことはなかった、できなかった。
「お前は生きている、それはすごいことだし、いいことだ」
「いいことなんて、何もない」
口に出た言葉はなぜか震えていて、自分で自分がどうしたのかと思う。彼は黒い目でまた見つめ、そして目を伏せた。
「生かされているなんて、考えるな。───────生きて、いようと思えよ」
「………」
パチパチと火がはじける音がする。夜空の中男ふたりで座り、沈黙が続いた。なにも話さず、しかしそばに座る男に、今度は聞いてみる。
「お前は、誰だ」
「俺か? 俺は化野だ」
「持って行け、お前が欲しいのはそれだろう」
そう言うと化野はにやりと笑う。海と太陽の香りがする男は、片手をモノクルのつけている右目に当てた。
「まぁ、お前も気が済んだらしいからな。だがいいのか、行っても?」
「さっさと行け、目障りだ」
その言葉に化野は楽しそうに笑うと、立ち上がり伸びをする。
「それじゃあ、それはもらっていこう。届かないことになるがそれでも構わないんだな」
「もともと不要のものだ、それにそんなもの届けたいとは思っていない」
ふ、と小さく笑う声。そちらを見ようとせず、ただ目の前で小さく跳ねる火を見つめる。
「まあ、それをもらえるのなら何も文句はないぞ」
そこまで言って彼はぴくりと向こうへと視線をやった。それと同時に狼煙としてあげていた煙が、白蛇のように歪み、揺らめく。誰かが、この狼煙に気付いたのだ。
ザッと音を立てて闇が切られた。紙に書いた絵を破って切り取ったようにそこには平凡ないつもの草木の生えた道が見え、切り取られた闇も瞬時に消える。側にいた化野はこちらを見て一度笑ったようだった。そしてすぐに切って現れた現実へひょいと飛び込むが、普段の緑に包まれた山道の光景にはその姿は見えなかった。
「よう、なんだか面白いことになってるな」
短刀をしまって白髪の男はのんきに言った。ああとつぶやいてから立ち上がり、焚いていた狼煙を消す。男はしばらくそれを見やり、そして言った。
「稀夜文、だな」
先ほどまでの夜空はその蟲の仕業で、「外界」から切られなければ、外へ出る方法に気付きにくい小さな世界だ。しかも外から見ればそこは透明で向こうの景色も見えてわかりにくいので、閉じ込められたらどうにか外から気付いてもらえるよう、大声を出したり大きな音を立てたりする。狼煙を上げるのが手っ取り早いと言う蟲師もいる。煙が立たないはずのところから、狼煙が上がっているのが見えるからだ。
問題はそれを気付いてくれる人間が通ってくれるか、だが。
「誰が出てきた?」
「なんのことだ」
「とぼけんなよ、稀夜文は好きな相手の姿を写す、性格もそうだ。こうだといいという願望ももちろん交えてな」
「誰も出てきていない、ただの蟲だった」
「ああそうかい」
面白そうに男が言うので少し不愉快になる。何がおかしいと言うと別にと言って煙草を銜えた。
「文は?」
「……持っていった」
普通の稀夜文は闇を切られた時点で活動をやめて逃げていく。しかしさっきの蟲は切られてもなおしっかりと文を持って逃げた。相当力のある蟲なのだろう。
「文って言っても思いの欠片だがな」
好きな相手への思い、それがあいつらの食べ物だ。大きな思いを持つ者ほど狙われやすく、持ち逃げされる。持っていかれた思いは「文」としてあいつらが食べ、そしてその思いは自分から消える。好都合だと思った。
「都合が良かったなんて思ってねぇだろうな」
男が緑の目を向けて言うので、無言で荷を背負う。背を向けるとかわいくねぇと背後でつぶやかれた。
「そうだ、あいつがまた来てくれって。魚をまた釣るからってよ」
その言葉に一度だけ振り返り、そしてそこを後にした。あの蟲は自分の願望を写し、自分の知っていることしか話さないし、しようとはしない。それがわかっていたから魚の話も星の話も知っていると思えたのだ。
しかし、と考える。生きる云々の話はなんだったのか疑問に思ったからだ。自分はそれを望みはしないし、考えたことも無い。ただ動いて息をするだけの生活にそんな望みなどない、はずだ。
思いなんてないほうが身が軽くていいに決まっている、そして望みすらも。
けれどずい分気が晴れたような気がした。
少なくとも生かされているのではなく、生きているのだと思えた。───────まあそんなことは、蟲にもあの医家にも、関係のないことだろうが。
おわり。
「謎の蟲名一欄」より『稀夜文(まれよぶみ)』
JIN・投稿
08/06/22