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赤い魚はビイドロに…



 波打ち際を歩いていて、瀕死の生き物をひょいと片手で拾った。見た目はただの草の切れ端。葉が五、六枚ついていて、波になぶられて萎れている。
 その色が薄緑、いいや淡青、それとも濃紫、もしくは濁灰。見ている間にゆるりゆらりと色が移り変わるのは、こいつがもう死に掛けているからだと彼は知っていた。

 あぁ、厄介な。緑に青、紫に灰色だと。そこから見事に懸け離れた色と言えば、まず浮かぶのは赤だろう。そんな色の魚、海やら川やらで簡単に見つかる筈はないというのに。その上この蟲はもう命の残りが少ない。もって後数時間というところ。
 ギンコはそれを摘んだのとは逆の手で、なんとか木箱を背から下し、硝子瓶を取り出して、海水と共にその蟲を瓶の中へと入れた。そうして足を速め、走るような勢いで海辺を離れて道を目指す。砂を蹴立てたその足が、道の上に固い足音鳴らして坂を駆け上る。

「化野…ッ! 化野っ、居るんだろう。出てきてくれ!」
「ギンコか…っ、どうした怪我か病かっ?!」
「あぁ、もう死に掛けなんだ、助けてくれ」
「な、何ぃぃッ」
 血相変えて飛び出してきた化野は、片手にハタキを持っている。掃除でもしていたのだろうが、その恰好に少し口元がほころぶギンコ。
「…っ?! 死に掛け、と言わんかったか? 今」
「あぁ、そうだ死に掛けてるから、とにかく早く出して来てくれ、この前のあの器」
「…死に掛けって……蟲が、か」
「蟲がだ。いいから、急げっ」

 急き立てられて、ハタキは取りあえず放り出し、化野は蔵へと駆け出す。そうしてすぐに、木の箱を一つ持ってくる。縁側の板の上に箱を下し、その中から取り出されたのは、美しいビイドロの器。淡い藍色の硝子に、真っ赤な美しい魚が一匹、紗のように薄いひれを揺らめかせている、そんな模様の。
 ギンコは片手に持っていたガラス瓶の蓋を開け、その中身を器の中に慎重に開けた。海の水と共に注がれたのは、もう殆ど腐り切って見える朽ちた草で、そんな汚いものを、この上等のビイドロの器に…と、他のものが相手なら化野も少しは怒っただろう。

「絵、じゃあ、駄目かも知れんが…」
「何が」
「この蟲はな、イソモエギと言って本来は海の底に草のように生えている蟲なんだよ」
 ギンコは心配そうに、ビイドロの中の草…いいやイソモエギを見ながら続きを言った。 


            


 それでな、色とりどりの深海の魚の、美しい色彩を食って生きているんだが、これが結構、厄介な食性をしててなぁ。欲しがる色がどれか一つでも欠けていると、だんだん弱って死んじまう。死ぬ時には根から腐って、茎から上だけが磯に打ち上げられ、そこで初めて蟲師の目に触れるから、磯に住む蟲だとされてたそうだが。

「お…っ」
「ど、どうした?」
 ギンコが声を上げたので、化野もビイドロの中身に注目する。
「あぁ、なんとか間に合ったらしい。絵柄の魚の赤でも、食えるとは知らなかったが」
 緑に青に紫に灰色。自分に欠いた色はそれ以外だから、助けてくれろ、とイソモエギは訴えた。それを見ていて助けたいと思う蟲師が、丁度そこを歩いていて、必要なものを持っている医家が、その里には住んでいて、蟲師と医家は、それはもう、無理を言い合えるような懇意の仲で。

「すまんな、いつも驚かせちまって」
 珍しいことをギンコは言った。自分が「死に掛けてる」と言った時の、化野の顔の色を思い出したのだ。別に騙すつもりとか、脅かすつもりもなかったが、言葉はやっぱり選ばなきゃな、と思う。
 それを聞いて、化野は薄っすら笑い、ビイドロの中で、随分と生き生きしてきたイソモエギを見下ろす。葉の数も、既に随分と増えていた。揺らめくその葉の美しい青の色、そうして器に書かれた魚の赤。ビイドロの薄藍。

 あぁ、綺麗だ。しかも蟲だときたもんだ。

「これ、このまま貰っていいんだよな?」
「……いいが、それじゃ赤以外の色が足りなくて、すぐ死ぬが」
「そ、そうか…。お、じゃあこれならどうだ?」
 ドタドタと奥へと掛けて行って、化野は手の中に、ビイドロの珠を幾つも握って戻ってくる。青に緑に黄色に紫、くすんだ灰色と橙色と。
「…用意がいいな」
「何、この前、偶然商人から見せられてな、綺麗だから買っといた。異国の子供が遊ぶ玩具だそうだが、蟲の餌になるとは思わなんだ。他にしてやることはないか?」

 あー
 そうだなぁ

 砂を底に敷き詰めて
 一日の半分は暗い場所に置いて
 海水は一月一度は取り替えて
 そうすりゃ寿命の尽きるまで
 その綺麗な色のまんまでいるだろさ
 
 聞きながら、イソモエギばかりを見つめている化野。ギンコは無意識に蟲煙草を取り出し、その場で火を付けそうになったが、目の前にいる蟲を思い出して、ずうっと縁側の隅の方へと離れてから火をつけた。化野は蟲の傍。ギンコは縁側の逆端にいる。

 だから、化野に
 蟲絡みの土産をやるのは嫌なんだ。
 俺が放ったらかしにされちまう。

 煙草を咥えたままでゴロリと横になり、微かに眉間にシワを寄せていると、そのすぐ後、口の煙草がひょいと奪われ。

 ちゅ……と。

「よく来たな、ギンコ」
「…な……」
「いや、やっぱり、これを言わんとな」

 にこにこ笑ってそう言って、化野はギンコの唇に煙草を戻すと、またイソモエギを眺めにいく。

 結局は惚れたが負けだ。
 すると負けは誰だ?
 俺か? それとも…?

 ギンコが寝返りを打って、横になった体を転がし、そっと化野を見ると、蟲ばかり見ている筈の化野の視線が、かなり多めに自分の方へと向けられているのがわかった。 蟲は助けたし、化野は嬉しそうだし、自分もまあまあ満足だ。

 そもそも惚れたなんだに勝ち負けなんて…
 いや、あいこ、というのも…あるか。

 
 ビイドロの中の蟲は、とても綺麗な色で揺らめいて、縁側の板の上に、ゆらゆらと青の光を落としていた。








「謎の蟲名一覧」から『イソモエギ(磯萌黄)』

作者コメントより
色を食う蟲。植物タイプということでね。

惑い星・投稿

イラスト・影太朗様

08/06/22