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ナガレゴエ





※注 オリジナルキャラが幅を利かせております。そういうものが苦手な方は、お手数を掛けますが、ご不快になられる前に黙殺のうえお戻り下さい。



1

 草いきれも濃厚な山。
 常緑樹は杉の林立した中、獣道も付けられていないようなそこを降っていくと、山肌を這うようにして作られた道に出る。太陽を避けて取った進路の先にそれを見つけ、ギンコがホッと息を吐いたところで、その道の先の三叉路に立つ、二人の男の姿を認めた。
 右に下れば海に向かう。左は、もうひとつ別の山を越える道。斜め右へはギンコが降ってきた山を登る。
 左へ行こうとする男を、斜め右へ行くつもりらしい男が引き止めている。
 木立を抜け、道に出たギンコは、三叉路も右の道を取るつもりでその二人へと歩み寄ることになった。
 片方の男については、見知っていた。
 山道を行けば汗ばむほどの陽気にも係わらず、彼は長い黒の外套をきっちりと羽織り、ご丁寧に揃いの手袋までしている。その手を、もう一人の男が差し出す長細い包みに向けて要らない、とばかりに振っていた。困惑した様子の眉は八の字に、何やら押し切られて、今にも包みを受け取りそうだ。
 久し振りに会った。そして相変わらずらしい、人が良い故に押しには弱そうな様子に、ギンコは思わず苦笑した。

「外記さん」
「え・・・? あ、ギンコ君!」
 呼び掛ければ、知り合いの蟲・・・師の外記は、いやに素直な驚きと嬉しさを滲ませた顔で振り返った。

「ほうほうほう、君は外記さんというのかね」
 もう一人の男は外記とは知り合いではないらしい。外記の名を知って嬉しそうに頷き、次いでギンコに助けを求めてきた。
「ギンコ君とやら、是非外記さんを説得してはくれないか」
「説得・・・?」
「ちょ、待ってくれ、おじさん」
 焦った声を上げる外記を放置し、ギンコのほうが与し易いと思ったか、頭の半分は白髪のその小太りの男は言った。
「こいつを受け取ってくれなくてね、困っているんだ」
「それは・・・?」
「だから、そんな風に思ってもらうような事は、してないって」
「いやいやいや! あの時君が通り掛かってくれなければ、私は死んでいたかもしれない!」
「へえ〜」
「へえ、じゃない、ギンコ君。大袈裟に言っているだけだ」
 何となく状況は掴めた。
 外記がした親切に、多大な感謝の念を抱いた男が、それを示さんとその長細い包みを受け取らそうとしているようだ。ところが外記は当たり前の行為をしたまでと、辞退しているらしい。
「大体それ、大切な商売モノじゃないか」
 何の、とギンコが問う前に、外記が「彼は骨董屋なんだ」と説明した。
「なかなかいい代物なんだけどね」
 骨董屋の男は、言いながら包みを解きに掛かる。
「ちょいと曰く因縁があってね。そこが面白くて買ったんで、売り物じゃあないんだ」
 非常に楽しそうに話す男の様子は、ギンコに良く知った人物を思い起こさせた。
 風呂敷が払われると、腕の長さほどある背の高い花瓶が出てきた。
 足元の方は黒と見紛うほどの濃紺で彩色され、それは窄んでいく首に向けて淡くなり、口に至っては――いや、口がない。密封された蓋の部分は、地の白をしている。腹から上半分には蛍彫りが散らされ、蓋の目地の直ぐ下辺り、薄水色の部分に、花の形をした小さな穴がぐるりと開いている。
「梅雨時・・・が主題なのかな、これ」
 これは紫陽花の花弁だろう、とその花の形の穴を指して外記が言う。そうなんだよ、とまた男が嬉しそうに頷く。
「夜の蛍に、雨の中の紫陽花、ってところだろうね」
 目を凝らせば底辺付近には、先の尖った草も描かれているが、それにしても構成としては単純なものだろう。
 分かり易いのは嫌いじゃない。
 と思う一方で、ギンコの興味は失せた。
 何せ、花瓶と思しき――穴に一輪一輪挿すのか?――それは、ただ貰うには嵩張る代物だった。しかも陶器製な上に、穴のある口付近は脆いだろうから、持ち運びにも気を遣う。明らかに、旅するには邪魔だ。
 外記は、と見ると、何とも言い難い表情で、小首を傾げていた。
「・・・で、因縁ってのは?」
 どうやら、断る気が薄れているらしい外記の代わりに、ギンコが問うた。
「それだがね。この花瓶・・・泣くんだよ」
「鳴く?」
 やはり花瓶らしい。
「そう。さめざめと、実に哀しげに泣くんだ」
「ああ・・・。泣く、ね。そりゃ、風かなんかがこの穴を通って、そのせいじゃないのか?」
「いやいやいや。それじゃあただ奇を衒ってみただけの物、じゃないか」
 充分そうだと思うが、ギンコはとりあえず曖昧に頷き返しておいた。
「そうじゃない。これはね、蔵に仕舞い込もうが、布や何かでぐるぐる巻きにしようが、泣くときは泣くんだよ」
 それはもしや、蟲じゃなかろうか。
 ふと思ってはみたが、ギンコの知識の中には「泣く」蟲なんて居ない。
 外記はどうかと振り返れば、外套の隠しから巾着を取り出し、中身を確認している。財布だろう、小銭の音がした。
「じゃあ、買うよ」
「は?」
「え?」
 差し上げます、と言ってきている物を、どうしてまた買うのか。
 口を開き掛けたギンコに、外記は目で制しておいて、更に尋ねた。
「余り持ち合わせがないから、買値で売ってもらわなくちゃならないだろうけど。幾らになる?」

 狐に抓まれた様な顔で、それでも何度も外記に頭を下げつつ、男が山を登っていく。
 それもそうだろう・・・。
 恩人だと、手放しに感謝している相手に、謂わば男からしてみれば、怪しげな物を売り付けた事になったのだ。
 買う、と決めてからの外記は、なかなか手強かった。
 道々に聞かされたのだろう。娘の事まで持ち出し、その子のお祝い代わりにしてくれと、親ならば断り難いようにまで、話を持っていった。
 ギンコとしては無論、金を払う事はない、と言いたかった。
 だが、つい最前まで外記を、その気がなくとも困らせていた男が、逆にギンコに助けの目を向けてきたので、言うのを止めた。
 面白がって、である。
 まあ、それだけではない。男の肩を持つ事は、外記を困らせる事になるからでもあった。
「で?」
 男の姿が道の先に消え、ギンコは外記に振り向いた。
「やっぱり蟲か何かなのか」
「ああ。ナガレゴエだよ」
 以前にも、こういう状態の物を見た事があるらしい。外記は中も確認せず、あっさり答えた。
「・・・ナガレゴエ?」
 珍しい蟲だろうか、と思っていただけに、ギンコはその名を聞いて拍子抜けした。
 珍しくも何ともない。
 この辺は蟲が多いな、と思えば、そこには大抵居る蟲だ。
「ほら」
 ギンコの態度を、信じていないと捉えたのか。
 外記は手袋を外すと、花瓶の穴に「蟲が恐れる」その手を近付けた。

 ひゅーひゅるーるー
 ひょーぅーおーおーぅ

「・・・本当だ」
「な」
 ナガレゴエの風<コエ>と重なり、穴からは泣き声のような音が立った。
 蟲の声が聞き取れない者なら、確かにこの花瓶は不可思議に「泣いて」いる事になるだろう。
「どうしてまたこんな所に」
 閉じ込められているんだ。
 最もなギンコの疑問に、
「さあ。それこそ『奇を衒った』誰かの仕業じゃないか?」
 決して少なくない額を支払って購入した外記は、どうでも良さそうだった。
「それより」
 と続けられた言葉に、暫し呆然とした。
「ギンコ君、これ、貰ってくれないか」
「・・・は?」
「邪魔なら、どこかでこれを割って、ナガレゴエを逃がしてやってくれればいいから」
 なるほど、それは分かる。
 蟲に恐れられている外記では、逃がす前に殺してしまいかねない。だからそれをギンコに頼むのだろう。
 分からないのは、手元に置かない事を前提とした物を、わざわざ貰わずに買った外記の行動だ。
「・・・娘のお祝いって、何だ?」
 だとしたら、外記があの男の説得に持ち出したその話題こそが、主の目的なのか。
「娘? ああ。結婚するんだそうだ」
 外記はふ・・・と息を吐いた。
「祝いの品のひとつに、あの人、これを渡す気だったらしい」
「ナガレゴエを?」
「というか、『泣く花瓶』を」
「そりゃあ・・・」
「娘にしてみれば、不吉だろうな。しかもどうやら、祝いを、と奥さんに言われて渡された金で買ったらしい」
「・・・」
「貰える訳がない」
 あの男は、二重の意味で外記に助けられた、という事だ。
「だから、貰ってくれるか?」
 再度問われ、ギンコは即答を避けた。
「ギンコ君?」
 思い付いた事があった。
 先程、男の様子に、思い出した顔があった。
「外記さん」
 手を出せば、どこかホッとしたような顔で、外記はギンコに花瓶を差し出した。
 その腕ごと掴み、ギンコは歩き出した。
「いい方法がある。外記さんも損をしないで済むぞ」
「え、俺は、別に」
「化野に売ればいいんだ」
「いや、それは」
 にやり、笑い掛けて外記の言葉を封じた。
「珍しいモン好きだからな。喜ぶ」



 相変わらずの、突然のギンコの訪問。
 喜び迎える普段と違い、今回は先に驚きが勝った。
 その背後に、遠慮がちに外記が立っていたからだ。
 来る途中、偶然行き会ったという。
 それはいい。
 外記が困っているので、それを買い取らないかと言って、見せられた珍妙な陶器物。
 それもいい。
 だがどうして。
 ギンコが外記の手を握っているのか。
 厳密には腕・・・手首だが。
 自然と向いた視線に気が付いて、外記が慌てて首を振った。
 分かっている。多分、外記は悪くない。
 元凶は、そんな外記を不審そうに振り向いた、ギンコだろう。
「で、どうだ?」
 ギンコに問われ、化野は腕を組んだ。
「分かった。とりあえず、よく見るにしたって中に入らないか。茶の用意くらいするから」
 困惑したような外記の態度が非常に気になるが、蟲師二人が持ち込んだ物だ。稀少に違いない。
 他愛もないやきもちを抑え、化野は二人を家に誘った。
 勝手知ったる家と、ギンコが玄関に向かう。続いた外記は、だがちょっと立ち止まり、化野を振り返って申し訳無さそうに頭を下げた。
 化野としては、苦笑を返さざるを得ない。
 容易く内心を悟られた事もそうだが、何より、とばっちりを甘んじて受ける外記に、だ。
 とにかく、そういう外記が困っていると言うなら、化野にとって協力するのは吝かではなかった。

「へえ・・・泣く、ねぇ」
 普通なら眉唾物の話だ。
 ギンコ一人が持ってきたのなら、証拠を見せろ、と先ず言っただろう。
 しかし、騙すより騙される方が得意そうな外記も一緒だ。言い過ぎた。騙す事は不得手だろう外記も同席している。
 証拠を得るにもまた、そんな外記に視線を向けるだけでよかった。
「個人の受け取り方にもよると思うけど。まあ・・・そう聞こえない事もない」
 徐に手袋を外し、三人の真ん中に鎮座した花瓶――説明されるまで、大きな香料入れか何かと思っていた――に、外記が手を翳した。
「・・・お」

 ひょーぅーおーおーぅ

 哀哭、と言えなくもない声がした。

「どんな仕掛けだ、これは」
「蟲だ」
「蟲?」
「中に封じ込められているんだよ」
「何を食うんだ、この蟲は? この穴から入れりゃいいのか?」
「害のあるなしを先ず気にしろよ、お前は。何も食わんよ」
「いやだって、死んだら聞けなくなるじゃないか」
「多分、大丈夫。それにこの蟲は人よりずっと寿命も長いようだから」
「そりゃ良かった。で? どういう条件で泣くんだ?」
「危険、害」
「・・・端的過ぎて分からん」
「人の概念で推し量るのは無理だよ。まあナガレゴエが、身の危険を感じたら、と言われているな」
「俺が聞きたいと思ったらどうすりゃいいんだ?」
「横でお前が泣けばいい」
「・・・俺の泣き声は危険か?」
「そうじゃなくて。同調したように泣くんだよ。人が悲しい、辛いと思うほどの事が、自分にも迫ってるんじゃないか、と勘違いするらしい」
「へえ・・・」
「試すか? 泣いてみればいい」
「あほか」

 買う気になっていた。
 真ん中に置かれていた花瓶に手を伸ばす。
 小さな穴を覗きこんだが、中は光も届かず、どうなっているのかも分からなかった。中身が蟲と言うなら、どちらにしろ化野には見えないのだが。
「で、どうだ?」
 ギンコに再度問われ、頷いた。
「買おう」
 言った途端、外記が困った顔をした。
 余程高いのかと思ったが、ギンコが「お買い得だぞそれは」と、化野が問う前に言った。
「外記さんが仕入れ値で買ったからな。上乗せなしの代物だ」
 これだけ、とギンコが立てた指に、外記は何も言わない。
 安い。
「お友達価格か? それは」
 思わず問えば、外記は驚いた顔をし、次いで照れたように口篭った。
「ええと、不吉だろう? その、泣き声が、するんだし。だから、元々安くて・・・」
「ああ、なるほど。てっきり、友人値引きされた額かと思った。いや、値引けって意味じゃないぞ、外記さん」
「え、うん。いや、値引く、けど」
「止めとけ外記さん。そんな事したら原価割れだし、今後もたかられるぞ」
「するか」
 ギンコをちょっと睨んでおいて、化野は立ち上がった。
「運搬料の代わりと言っちゃなんだが」
 それから、黄昏つつある外を指差した。
「今晩は泊まっていってくれ」
 言うと、外記は化野の顔とギンコの顔を見比べ、更に化野にだけ分かるようにいいのか?と問うような目を向け直した。
 苦笑し、頷く。
「酒もつけるぞ?」
 逡巡を見せた後、外記は頷いた。


2

 客間を外記に使ってもらい、ギンコの布団は化野の寝室に敷いた。
「まだ眺めてんのか」
 ギンコが風呂から戻ると、化野は布団に腹這いになって、枕元に置いたナガレゴエの入った花瓶の穴を覗き込んでいた。
「なあ、これ。逆さに振ったらどうなる?」
「・・・泣くかもな」
「どれ」
 泣かなかった。
「・・・危険は感じなかったか」
「そのようだな」
 残念だ、と、先程乱暴に振ったのと同じ手とは思えないほど丁寧な手つきで、化野は花瓶を枕元に置き直した。そのまま仰向けに寝転ぶ。まだ寝る気はないのか、掛け布団の上である。
「・・・」
「・・・」
 視線を感じる。
「おい・・・」
「なんだ」
「余計な事、考えてないだろうな?」
「余計な事って何だ」
「いや・・・」
 墓穴だったか、と思わないでもなかったが、ここまで言ったなら一緒だと、開き直った。
「しない、ぞ」
「・・・」
「外記さんが居るんだ。しないから、な」
「・・・」
 返事がないのを訝って振り向き、意外なその近さにギンコは驚いて仰け反った。
「うわっ」
 転がされた。
 化野がギンコに伸し掛かる。
「大丈夫だ」
「何が!?」
「酒が過ぎた、と言ってたぞ。多少の事じゃ起きてこないだろ」
「顔色変わってなかっただろう!」
「そういう性質なんだろ」
「お前、都合良く、んっ」
 軽く合わされる口付けではない。初っ端から、歯列を割って化野の舌が入り込み、ぞろり・・・と口内を蹂躙していく。
 抗議の意味でその胸を軽く叩いたが、化野は退かなかった。
 ・・・何か、怒っているのか・・・?
 らしくない。
 性急過ぎる・・・?
「ふっ・・・ん!」
 浴衣の袂から入り込んだ指が、胸を掠め、心臓の上を這う。しばらくその辺りを彷徨っていた手が、鼓動を確かめられる位置で留まり、唇が解かれた。
「なん・・・なんだ、一体・・・」
「お前・・・外記さんを気にし過ぎじゃないか」
「なに・・・?」
「いや違うか。気にしてるのは、俺だな」
 歪められた顔が、発言の後悔を示していた。
「・・・俺が、外記さんと。何だってんだ」
「いや・・・」
 腹が立つより呆れた。
「じゃあ、俺も言わせて貰うが。俺には言うくせに、外記さん相手には、値引きを自分から断ったよな?」
「そ・・・」
「どうしてだ?」
 やはりな、と思う。無意識だったらしい。
 黙った化野に、ギンコは溜め息をついた。
「大体今日、外記さんを誘ったのはお前だろう」
「だな」
「つまり、そういう事なんだろ」
「あれはだな、どうも」

「「放っておけなくて」」

 声が重なり、二人はしばし互いの顔を見詰めた。
「ふ・・・」
「く・・・」
 どちらともなく笑いが洩れる。
 そのまま声を殺し、しばし笑い合った。
「何なんだか・・・」
 笑いを納め、くたり、と化野はギンコの上で力を抜いた。
「重い」
「外記さんが、お前をどうこうするとか、考えちゃいないんだが」
「考えてるなんて言ったら、それこそ怒るぞ」
「ただ、やっぱりなぁ、お前が俺に、ってのを知ってるから、外記さんも」
「・・・ちょっと待て」
「ん? ・・・あ」
「外記さんが、何を知ってるって・・・?」
 地を這うようだ、とギンコは自分の声をそう思った。
「化野・・・?」
「あ゛〜」
「化野っ!」



 これしか手はない。
 化野は思い決めた。
 再び怒鳴ろうと口を開いたギンコに、化野は口付けた。
「ぅ・・・っ」
「だから、大丈夫だ」
「な、にが大丈夫なんだ・・・っ、流すな!」
「流されとけ」
「なっ・・・うぁっ」
 騙まし討ちのように爪で胸を引っかけば、ギンコは背をしならせた。浮いた腰に腕を回し、帯を抜き取る。開いた襟、爪で掻かれ、白い肌に仄かに赤い線。それを舌で癒せば、ギンコは首を打ち振った。
「ば、か・・・やめっ」
 突っぱねてきた腕を、肩を逸らして受け流し、化野はギンコの浴衣の前を開きつつ、腹へ下腹部へと舌を滑らせた。
「は・・・っ、ぁう、んっ」
 ギンコの手が、化野の浴衣の肩にしわを作る。それに留められ、口が届かない。膝裏を抑えていた片手を、化野はギンコのものに伸ばした。
「ひ、ぁ・・・っ――!」

 ひゅーひゅるーるー

「っ!?」
「・・・何だ?」
 枕頭のナガレゴエが、泣いた。
「・・・どうして泣いたんだ、この花瓶は」
「・・・知る、かっ」
「ん〜?」
 難しい顔で首を傾げた化野の下から、ギンコが這い出る。が、寸前に襟首を掴み、改めて押し倒した。
「おい・・・っ」
「誤解があるぞ、ギンコ」
「なに・・・?」
「だってお前、今、哀しい訳でも辛い訳でもなかったろう」
「っ、て、ナガレゴエが、俺に反応したって言うのか!?」
「だろう。『泣く』と『啼く』を間違えてる」
「〜誰が啼いたんだっ!」
「お前」
 言い切られ、羞恥なのか怒りなのか、ギンコの顔が朱に染まる。
「これはちゃんと、人として、正しきを教えねば」
 やたら重々しく頷く化野に、ギンコは言葉もない。
「泣かなくなるまで、啼かせていいか?」
 化野の確認に、ギンコの顔は蒼褪めた。
「よし、早速」
 反論なし、了承、と受け取る。
「待て待て待て! やっ、止めろっ」
「遅い」
 内腿を撫で上げれば、きれいに喉が反り返る。
「ぅあ、や・・・っ、駄目、だ」

 ひゅーひゅるーるー

 やたらと非協力的な言葉ばかり吐くギンコに、やっぱり「泣く」ナガレゴエに、化野は俄然やる気になった。
「あまり、なかす、な・・・ぁっ」
「・・・どっちをだ?」
「な・・・ナガレゴエ、だっ・・・」
 じゃあ、自分が「啼かされる」事はいいのか?
 そう問うてやろうかと思ったが、拒否されれば寂しいので、やめた。
「何故だ」
「蟲・・・蟲が怯え、る・・・」
 手を、緩やかな動きに変える。ギンコはそれにも胸を喘がせながら、どうにか言葉を継いだ。
「ナガレ・・・ゴエ、は・・・蟲たちの警報、でもある、から・・・」
 つまり。
「ナガレゴエがお前の声に反応しなくなれば、万事解決という事だな」
「なっ・・・!」
 絶句するギンコに、化野は宣告した。
「俺も頑張るから、お前も頑張れ」
「いらん・・・っ!」

 ギンコの叫びはきれいに黙殺された。



 腰がだるい。
 太陽が眩しい。
 大欠伸に滲んだ目尻を擦りながら、化野は手拭いを肩に井戸に向かった。
 ギンコは寝かせておくとして。外記がいるのに二人とも、という訳にはいかないだろう。
 寝が足りない。いや寝ていない。
 流石にこれでは、仕事に差支えがありそうだ。
 まさか自分でも、これほど意地になるとは思ってもいなかった。
 なにせ「ナガレゴエ」が泣き止まない。
 ギンコの声が嗄れるのが先か、とすら、一時は危ぶんだ。
 ふ・・・と化野は笑った。
 いやしかし、その勝負に俺は。
「おはよう、先生」
 井戸に出る裏口に、外記が立っていた。
「お、早いな外記さん。おはよ・・・う」
 欠伸に、言葉が途切れた。
「随分眠そうだな」
「ああ、まあ、ちょっとな」
「まだ寝てても・・・いや、そうだ、ちょうど良かった」
「ん?」
 憂いた顔の外記に気が付き、化野は眉を寄せた。
「もう、お暇しようかと思って」
「・・・急ぎの用か? いや、待った。とりあえずギンコを」
 起こしてくる、と土間に下りかけた足を再び戻せば、外記が止めた。
「いいよ、起こさなくて。先生が言付けてくれればいいから」
「そんなに急ぎか?」
 では昨日、引き止めて悪い事をしたのでは・・・と、押しに弱い外記の性格を鑑み、化野は反省したのだが。
「多少急いだ方がいいだろうな。・・・蟲が減ってるんだ」
 俺のせいだ。
 そう言って外を眺める外記に、なんだそんな事か、と化野は肩の力を抜いた。
「大丈夫だ、外記さん」
「大丈夫?」
「ああ。俺が勝ったから」
「・・・良く分からないが、おめでとう」
「おう! ・・・じゃなくて、とにかく、蟲が減っているのは外記さんのせいじゃないから。ナガレゴエのせいだ」
「ナガレゴエの・・・?」
 分からない、と首を傾げつつ、上がり框に立つ化野のほうへ、外記が歩み寄ってくる。
「いや何、今朝近くまで散々、泣かせたもんだから。ナガレゴエが泣くと、他の蟲が怯えるんだろう? だからそのせいだ」
「そうだけど・・・。ナガレゴエを? 先生が?」
 ますます訝る外記の様子に、化野はあることに気が付いて慌てた。
「違う、外記さんっ。俺が泣いたんじゃないぞ!? ナガレゴエがギンコの喘ぎ――」
 外記の目が驚きに見開かれるとほぼ同時。後頭部に衝撃があった。
「うおっ!? ・・・あいてて・・・」
 土間に落ちた。
「せんっ、・・・大丈夫か? ギンコ君」
 何故、土間に落ちて膝やら強打した俺ではなく、ギンコの心配だ?
 己の後頭部を襲撃した屑籠を拾い上げつつ、化野は背後を振り返る。
 板戸に縋るようにしてギンコが座り込んでいた。
 そのままギンコは外記には大丈夫だと言い、次いで化野を睨んできた。
「お・・・まえはっ、外記さんに何を言う気だっ」
「何って、外記さんが急いで出て行かなくてもいい理由をだな」
「それだけで済んだか、今のがっ」
 確かに、済まなかっただろう。それでギンコの顔が赤い理由も分かった。しかし。
「だからってお前、腰も痛いだろうに、無理して物を投げ、うわっ、待て! 流石にそれを投げられたら、下手すりゃ俺も死ぬ!」
「ギンコ君・・・それは確かにまずいと、俺も思う・・・」
 控えめな外記の援護射撃もあったが、ギンコは構わず、握った火打石を大きく振り上げた。



「・・・大丈夫か、先生」
 見下ろしてくる外記に、呻き声を殺しつつ化野は土間に寝転んだまま、片手を挙げて応えた。
 火打石は当たらなかった。振り上げられたものの、ギンコの腕は途中、力なく垂らされたからだ。やはり腰に無理があったのだろう。
 だが、それを避けようとした化野は、背中から派手に土間に落ちた。
 そして外記が化野に手を貸さない理由は。

「絶対、故意に、うっかり割ってやる、あの花瓶・・・っ」

 怒り心頭らしいギンコに遠慮しての事と思われる。


おわり







「謎の蟲名一欄」より『ナガレゴエ』

作者様コメントより
 スミマセン。主催者様のお言葉に甘え、当て馬に便利だったので、外記出しました。
 補足:外記と言うのは年下をして頼りないと思わせるほど非常に頼りない、蟲を寄せ付けない中年の蟲師です。善がり声には反応しないナガレゴエ・亜種・・・そんな蟲嫌だ、先生。


眞住さま・投稿


08/06/22