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瑠璃偽言(るりにせこと)



 あの日 舟を探したかった
 別れの海にて
 逢いの海辺にて
 舟を探したかったのだ
 
 朽ちた舟で構わない
 いっそそのまま沈むがいいと
 心のどこかで思わなかったか

 別れの海
  別れの海
   彼には逢いの海辺は無く

  何処にも無く

       永久に無く





 …本気じゃ なかったのよ

 女の声が聞こえた時、ギンコには判ったことがある。確かに女は岸になど、戻りたいとは思っていなかったのだろう。だけれど男が自分を追ってくれるのを、振り返り、振り返りして願っていた。女の胸の、男への想いは嘘ではなかったのだ。

 

「よぉ…」
「っ! あんた!?」
 シロウは聞き覚えのある声に振り返り、手にしていた網を取り落とした。白い髪、片目だけの碧の目。忘れるはずは無い、覚えている、この男の事は。
「どうしてっかと、思ってな」
「元気にしてるよ、お蔭さんでな。いや、本当にあの時は…。あんたがいなけりゃ今の俺は無い。あいにく妻は隣里に出てるから、大したもてなしも出来んが、よかったら家へ」
 自分へと曖昧に伸ばされる手を、ギンコはぼんやりと見つめ、最初に会ったあの時とは違う、健常そうな男の姿を、どこか眩しげに見た。あぁ、仲良くやってるみたいだな。この里のものらとも、妻の女とも。

「いや、今日は……」
「先を急ぐのか」
「じゃぁないが…。頼みがあってな。ただ、あんたには、少し辛いことかもしれんから」
 そう言い置いて、ギンコはシロウの顔を見た。そうして言った。あの海へもう一度行きたい。あれからもう一年。その後の海がどうなのか気になって、と。
「あぁ…。構わんよ。舟を出せと言うんだろう。もう俺も妻と共に舟を使うから、船頭もあんた任せにはせん。俺んとこの舟はあっちに」
「いや、舟はある」
 ギンコがシロウを連れて行ったのは、岩陰の窪みに嵌った朽ちかけの舟。それを一目見た瞬間、シロウの顔は僅かに強張ったのだ。覚えてはいるのか? 今はもう別の人生生きてても。これはあの時、この男の妻が乗っていた舟だ。
「朽ちて見えるが、まだまだ漕ぎ出せる。それに…この舟がいいんだよ。あの時のことを覚えてる舟で、あの海にいくのがいいんだ」
  人はどう思うか知らんが、とギンコは言った。
 海も風も、蟲共にもな、記憶は残るものなんだ。その記憶の助けも借りて調べときたいこともあってな。
 凪の日の入り海のように、ほんの僅かだけまたシロウの感情が揺れた。
「嫌かい…?」
「…そんなことはない。もう過ぎたことだし、他ならぬあんたの頼みなんだ」
 シロウは顔をあげ、二の腕にあの頃はなかった筋肉を盛り上げて、岩に引っかかっている小舟を動かした。ギンコも手を貸すが、ずっと力の強いシロウには、あまり助けは要らないように思える。変わったのだ、こんなふうに、一年前のお前とも、さらに前のお前とも。

 そうしてふたりは海へ出る。凪は入り海を抜けても変わらず、緩やかな舟の動きが、彼らの記憶をあざやかな過去へと戻した。あの時のあの場所へと近付くと、ギンコは木箱から硝子の瓶を出し、小さな小さな黒い魚をほんの数匹海へと放った。
「…その魚は」
「瑠璃出魚。…ここいらはみんな白に染まるよ、海も風もな」
 白。白に、とギンコは言った。名前の通りなら瑠璃に染まりそうなものを。ギンコの言葉通り、海は乳白色へと一気に染まる。そうして凪いだ風には、あっという間に靄が広がった。まるであの日のままに。岸は何処にも見えなくなる。心が眩んだ。怖い、とシロウは心底そう思った。

「岸は見えるかい…?」
「見えない。だが、俺は…っ」
「誤解するなよ、これはあの時の蟲とは違う。ただ、本当に視野を奪われていて岸が見えないだけだ。あんたは帰りたいだろ、妻のいる岸へ」
「そ、そりゃあ…」
 帰りたいに決まっている。だが、それならば何故言葉がうまく出ないのか。ゆらゆらと揺れる舟の上で、ギンコは立ち上がり、シロウと対峙する場所へと立った。シロウはよろめいて、舳先の傍で片膝をつく。
「戻して、くれ…岸へ…!」
「……聞きたいんだ、シロウ」
「…何を、だ…」
 初めてシロウ、と名を呼ばれ、彼はゆっくりと顔を上げた。見下ろしてくるギンコの姿が、立ち込める靄に溶けて消えるように見え、どきり、と胸がざわめいた。あぁ、また消える。消えてしまう。あの日ここで妻を失くしたように。
 ギンコはシロウの顔を見る為に、膝をついて少し近寄り、彼の目を覗きこんだ。緑の目、白の髪、他の誰とも似ていない姿。忘れようもない恩人の。

「あんたが今、想ってる女は、岸でまつ今の妻だけなんだろ…?」
「な…、何故。どうして、そ…」
「答えなよ。答えりゃ帰してやるよ、あんたの想う相手のとこへ」
 あぁ、もしも、みちひを今も好きだと言えば、冥府へでも流されそうな、そんな怖い目をして、ギンコは言うのだ。でも、だからではなくて、シロウは真実を言葉にした。今、想う女は今の妻だけだ。他のどの女も愛してはいない。みちひを愛していた心は、あの幻の「みちひ」と共に消えたのだ。
「今の、妻だけを…愛してるよ…」

 すまない、みちひ、みちひ。俺はお前を好きだった。お前が例え、ひとかけも俺を愛していなくとも。あの日の言葉は、きっと俺が欲しかっただけの言葉なのだろう。幻が聞かせてくれた、彼女の最後の言葉。

   あんたの   故郷   早く 見たい

 涙が零れた。その涙に霞む風景は、何処も変わらぬ白のままだった。ギンコは揺らぐ舟の上に立ち上がり、うっすら笑ってこう言った。
「あんたは随分、正直だ。瑠璃出魚の瑠璃の名の意味を、見せてやれるかと思ってたのにな。あぁ、蟲の作る現象なんか、あれでこりごりかい…? なぁ、それじゃぁ俺の傍にいるのももう、さぞやこりごり、なんだろう」


 なら、最後に一つ、美しい瑠璃を、見せてやる。

 瑠璃出魚の、名前の所以を、教えてやるよ。
 せめてもの詫びに。

 ずっと幸せにな、シロウ。今の妻の傍らで。


 ギンコはシロウの耳元で囁き、そうして傍に寄った体を離すとき、唇をシロウの頬へと掠らせた。そのまま冷たい唇の感触が、シロウの唇をちらりと吸っていったのは、靄の見せた幻だったか。そうでなかったか…。
 殆ど声にしないギンコの声が、船底でさらさらと鳴る水の音に混じって、なんとかシロウの耳に届いた。


 あんたと違って 俺は一人なんぞ ちぃとも 辛くないよ…


「ギン…」

 その時、数匹の黒い小さな魚から、濃く藍色が溶け出して、そうして一面に、瑠璃が広がる。波だけではない、風へも空へも。瑠璃色の紗が視野いっぱいに広げられ、それがすべてを埋め尽くすようだった。
 瑠璃出魚は、偽りを見抜く蟲。それらが発した靄に包まれ、そこで一言なりと嘘を呟けば、視野のすべての白が瑠璃色へと変わる。
 ギンコはシロウを見つめたまま、そうして一つ、ぽつりと嘘を呟いて、そのまま彼を眺めていた。シロウも舳先に座り込んだまま、目の前に立っているギンコを、ずっと見つめていた。
 まるで翡翠のような美しい碧の目、冬の初めに見る雨のような、混じり気のない綺麗な白の髪。強く立っているようでいて、揺らぐ舟の上にいるように、本当は心細げに揺れている、そんなギンコの姿を、少し恐れるように、酷く眩しそうに。

 瑠璃色を吐き出しつくした魚たちは、瑠璃の波間に白い姿を曝しながら、波の表を漂って、やがては朽ちて瑠璃の中へと溶けて消えていった。




 数時間が経っていただろうか。気付けばシロウは砂浜に打ち上げられて傾いだあの舟の中で、ぼんやりと空を見上げていた。仰向いたまま、潮の香りのする袖で、彼は目元を覆い、くす、と小さく一つ笑う。
 正直なのは、あんた…だな。一人が辛くて、そんなに辛くて、だからあんたは最初に俺が気になった。もう失ったかに見えた妻を三年も、ずっと想っている俺に声を掛けて、あんたは何が欲しかった。逢えずとも、変わらずに愛し続けてくれる相手が、欲しかったのか…?

 じゃあ、言ってくれりゃぁよかったのに。

 まるで翡翠のような美しい碧の目、冬の初めに見る雨のような、混じり気のない綺麗な白の髪。強く立っているようでいて、揺らぐ舟の上にいるように、本当は心細げに揺れている。
 そんなあんたをなら、俺はずっと想い続けていられたかもしれないのに。

 今、想ってる『女』は、岸でまつ今の妻だけか、とあんたは聞いたな。もしもその問いが、今想ってる『ヒト』は…だったなら、あの魚はきっと俺の答えに瑠璃を見せてくれただろうよ。

 涙が零れた。

 この涙はこれ一つきりだ。もう俺は今の妻だけを愛していく。かつて愛していたみちひの為にも、たった今、まだ愛しているあんたの為にも。
 



 そうしてシロウが、空の青の眩しさに目を閉じていた頃、ギンコは一人、もう山の中を歩いていた。そこから山を三つ越え、谷を一つ、大きな川を二つ渡ったその先の漁村には、一人の医家が住んでいる。

 蟲に何度困らされようと、一向へこたれない男だ。だから蟲絡みの厄介を背負って訪れるギンコを、きっと何度でも喜んで迎えるだろう。何年会えずにいても、きっと永久に彼を想っていてくれる、そんな男、なのかも知れない。

 ギンコにも、別れの海の先の、逢いの海辺がある。
 何処にもなく、永久にないと思ったその海は、確かにあるのだ。

 ギンコの歩く先、そこまでの道は、もうそれほど遠くは無い。




 終






「謎の蟲名一覧」より『瑠璃出魚(るりいずうお)』

惑い星・投稿


08/06/11