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春 蛾 墨
分家の家から戻ると、戸口に待つ者が居た。わざわざ訪れる者もないだろう雪日を選んだというに、まだ子供の域を抜けきっていないような若い蟲師だ。
「手持ちが無くてもウロ繭を譲ってくれると聞いた」
「そんな噂、誰に聞いた」
「ワタリに」
「一丁前にワタリ連中との交渉で情報を得ているのか」
山奥に一人、かかぁも持たずに居る。山に住むのは兎澤家のウロ守の因習であったが、所帯を持たなかったのは、本人の悪癖のせいであった。
懐が心許無いからといってウロの交換を渋っていては蟲師も生業に支障がでる。そんな蟲師に性交を引き換えにウロを渡すことがあるのだ。だが、ちょくちょくあったのではウロ守の仕事にならない。
「金でないものと交換ってことだろう?俺じゃ駄目かね」
大人びた口をきく凍えた唇は青褪めていたが、白く薄い肌は雪女のそれのようだ。囲炉裏に火をいれると、深々と冷え込んだ空気の一部が僅かに和らむ。ほうっと息をつき、幼さの残る唇に煙草を咥えるのを咎める。
「此処で蟲煙草は吸ってはならん。ウロさんが嫌がる」
ごめん…なさい。と、そのときばかりは年相応に素直に謝る。そして、自分は蟲を寄せる体質だから長居できないと告げた。だから、するのであれば早くということなのだろう。子供は、そんなことをと知らんでもと無責任な事を言っても始まらない。この年齢で独り生きていくのは易しくない。
そう成らざるおえなかった原因でもあるかもしれない白い頭を撫でた。
「今日は機嫌がいいのでな。お前とそう年の違わない小さな娘っ子が喜びそうな話なぞを聞かせてくれるでいい」
まだ8年待たねばならんが、やっと素質の或る者が現れた。この年になると聞いた話は直ぐに忘れてしまう。これからは、娘がここに来たとき話題になるよう蟲師たちに聞いた話は書き留めておこうと道々考えていた。
「話……色を食う蟲の話、とか?」
「ああ、それでいい聞かせてくれ」

話を聞いていて、この蟲のことは昔に誰ぞから聞いた記憶があると思った。誰からだったか─────
ムジカだ。
早くからの馴染みであったが、あの男も蟲を寄せる体質だと言い、蟲煙草を止められる此処には長居しようとしなかった。それでも、人恋しさに無理に引きとめた折に物語られた蟲だ。あの時も今と同じように、小さく開かれたままの表戸からは冷風が吹き込み、雪がちらちらと舞い込んできていた。
「色を食う蟲ねぇ」
「大抵は鮮やかな色を好んで食っていく。晴れ着が色褪せたり、螺鈿細工の虹が消えたり」
派手な色があればそちらへ行くが、地味な色味しか無い場合は、人にも憑く。何事かで一晩で黒髪が白髪になったというのには、その蟲の仕業である場合もあるという。特に、このような雪の積もる冬には色が少なくなる。このあたりにも居るようだから注意したほうがいい。
「ほれそこ、お前さんの下帯の中」
「え…うわっ!」
恐る恐る覗くと、しもの毛の色が白く抜けていた。まるで老人のようだ。
ぶぶっとムジカが吹き出し笑う。
「毛は伸びれば元に戻るが、それまで当分悪さはできんな」
先ほどからの股間の違和感は、いつもの悪癖の所以だと思っていたが、蟲がのたくっていたせいだとは。真っ黒な芋虫のような蟲を摘むと蛹化が始まっていた。
「初めは無色なんだが、いろんな色を食ううちに、食った色が混ざって黒くなる。真っ黒になると蛹となり、やがて羽化するが、色が抜けてクワコに似た白い蛾の姿になる」
黒を薄めるのには白しか無ぇんだろうよ。と、憤然として嘆く。
「ウロの代金をマケてくれるなら、一晩相手してやらんでもない」
「お前、ワザとだな」
「さあな、俺は蟲を寄せると言っただろう。それを引き止めたのはお前だ」
馬鹿げた駆け引きに負けた気分であったが、諸々含んで腹黒いムジカの躰は、甘(うま)かった。
*
ギンコが、床板を這う春蛾墨をひょいと捕まえた。
「ウロと関係があるのか判らないが、ここいらは多いようだ。俺は、こんなだから問題ないけど、若い娘が来るなら髪の色を食われないように明るい色の着物を用意してやるといい。どうせなら初めから黒い色を食えば早いだろうに、なぜか黒は後回しにする性質があるらしいから」
「そうしよう。いい話を聞かせてもらった」
先代の婆さんが、年に似合わず派手な着物を着ていたのも思い出した。
今では、頭も下も本当に白くなって、自分にも食われる色は無くなるほど老けた。だが、この若い蟲師が難儀すること無いよう、次のウロ守が育つまで、もう少し長生きせんと。
今度はタダというわけにはいかんかもしれんが、取替え時になったら、また来るといいと言うと、やっと、人懐っこい笑みを漏らした。いい顔だ。きっと、次のウロ守の娘とも長い付き合いになるだろう。
終わり
「謎の蟲名一欄」より『春蛾墨(はるがすみ)』
犬神 実様・投稿
08/06/01