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巻物に、龍



───────薄黒い雨雲遠くにありて、遠雷近づき龍となる。





「そりゃなんだ?」
波の音が聞こえる里で、化野は家の縁側に男を招き入れてそれを聞いた。商人と名乗る男はへへと笑い、いえねと話す。
「なんでもあるところに住む男が書いた、物語なんだとか」
彼はそれを本当のことと書いたが、それを信じる者は誰もいなかった。彼が書いた文は巻物として残り、そして不思議なことにそれは雨を呼ぶのだと、商人は言った。
「雨を呼ぶ……そりゃすごいな」
「でしょう、でしょう」
身を乗り出す化野に縁側に座りながら商人は勧める。化野がいくらだと聞くと商人は懐からそろばんを出してそれをいくつか弾き、化野に見せた。
「けっこうするなぁ」
「何しろいわくつきの代物ですから。今ならまけてこのくらいに」
「うん、それでも高い」
渋る化野に商人は何を仰いますと明るく言う。
「二度と出るかというほどの貴重品ですぜ、めぐり合えるなんて先生は幸運ですよ」
「そうか?」
「そうですとも!」
にこやかに言われて化野はじゃあ、と言いかけたそのとき。



目の前に伸びてきた腕が、そのそろばんの玉をパチ、と弾く。ふたりはそれをしばし呆けて見つめ、そして腕の主を見た。煙草を銜えた男が、あー、と低くうめく。
「そりゃこんくらいしか価値がねぇだろ」
「ギンコ!」
喜んで抱きつこうとする男を片手で制し、ギンコはまだ呆けている商人に笑う。
「あんた、なんだ人の商売に……」
「そういうわりにどもってんじゃねぇか。な、これはこんくらいだ」
それは商人が示した値段よりはるかに下の値段。商人がてめぇと低く声を出すと薄く笑みを作る。
「どうせあんた、これをタダ同然で引き取ったんだろう?」
「……何を根拠に。これは雨を呼ぶれっきとした、」
「雨を呼ぶどころか陽は元気に出てるけどな」
「……お前、」
さらに言おうとする商人を捕まえてまあまあと縁側から離れる。そして小さな声でいくつかやり取りすると、縁側でぼんやりしている化野に振り返り金、とギンコが手を出した。
「この額でいいって」
「おう、わかった」
あわてて金を払い、商人が帰っていくのを見送って、化野は巻物を手にいいのかなとつぶやく。ギンコは縁側から部屋に上がりこみ、勝手に茶を飲みだした。
「紙代くらいにしかならんだろう、あの額じゃ」
「あれでも良心的なんだよ、まぁ手間賃くらいにはなるさ」
笑うギンコにそうかと返し、化野は手の中の巻物を見た。茶色く変色した巻物は、かなりの年月が経っているように思える。紐でとじてあるそれを解き、ゆっくりと開くと文字が淡々と並んでいるのが目に入った。


 薄黒い雨雲遠くにありて、遠雷近づき龍となる。
 空響く風の音に声を聞け。
 稲光にその神々を、轟く落雷に怒りを。


「いいな、何度読んでもいい」
なんだか気に入った、と笑う化野をちらりと見てから、ギンコはさてととつぶやいて腰を上げた。
「行くか」
「どこへ」
驚いて問い返す。何か用事でもあったのかと思ったが、そうではないらしい。ギンコはここらにある海岸に行こうと言うので、化野はうなずいて仕度をした。
「巻物は持っていけよ、それがないと意味がねぇからな」
「なんで」
「来りゃわかる」
言うことはいまいちよくわからないが、自分が好きなギンコが言うのだ、化野はうなずいて巻物を持つと、ギンコのあとを追いかけた。しばらく歩き、石だらけの殺風景な場所にたどりつく。ギンコは手に持っていた煙草を銜え、化野から巻物を受け取った。それを広げ文字を目で追うと、また巻物を閉じる。
「手ぇ出せ」
「触っていいのか」
さっきからそんな雰囲気じゃなかったので、許しが出るのを待っていたと化野が言うと、アホかと呆れられる。なんでそっちの意味に捉えるんだと言われ残念そうにうな垂れるとあーもう、とギンコが言った。
「帰ったら好きなだけ触らせてやるから、とっとと手ぇ出せ」
その言葉に喜んで手を差し出す化野に、調子いいなとギンコが悪態をつく。
ふたりは手をつなぐと、海を見ながらギンコが目を閉じる。化野もそれを見て、そっと目を閉じた。
「復唱しろよ」
「ん」
言われて化野はうなずいた。目を閉じていると感覚が敏感になるようで、波の音、頬をかする
風、そして握ったギンコの体温がよく感じられた。どうやら視覚を補うために体が勝手にそうしてしまうらしい。
「薄黒い雨雲遠くにありて、遠雷近づき龍となる」
「それその巻物の…」
「早く言え」
せっかちだなあと思いながら化野は唱える。
「…薄黒い雨雲遠くにありて、遠雷近づき龍となる」
「空響く風の音に声を聞け」
ふわ、と風が吹いた気がしたが、化野は気にせず続ける。
「空響く風の音に声を聞け」
今度は何か、声のようなもの。何かの鳴き声のような、大きな獣が吼えたような声。
「稲光にその神々を」
「稲光にその神々を」
ドドォン、と地鳴りがした。驚いて化野は身をすくめたが、すぐにギンコが握った手を握りなおしてくれたので、少し落ち着くことができた。ギンコの低い声が最後の言葉を紡ぐ。
「轟く落雷に怒りを」
「轟く落雷に怒りを」





そこまで言い終えると、ギンコがよし、来たと言った。化野が目を開けると、その光景に目を疑う。
さっきまで晴れていたはずの海の向こうは黒く染まり、そしてそこに白く細長いものが舞っていた。時折稲光を出すそれは、

「……龍、」

分厚い雷雲の中を龍が踊るように移動している。風が温かく湿った空気を運び、そして地をも揺るがすほどの大きな音。───────落雷だ。
化野は興味と、そしてそれに対する恐怖を感じていた。しかし同時に、歓喜すら覚えていた。興奮して知らずギンコの手を強く握る。ギンコはそれを見て笑うと、それから舞い踊る龍を見つめた。
雲はやがてふたりに近づき、真上にそれを見ることができた。逃げたくもなったが、それよりも感じていたくて化野はそこから動かなかった。
頭上を龍が鱗を煌かせて通っていく。真っ黒な雲とそこを四方八方に貫く稲光、轟く音。体の底から響くそのメロディは、ただただ自分の存在の小ささを思い知らされるような気がした。
それはきっと、神への羨望、そして恐怖。人では敵わない大きなものなのだ、化野はそれが通り過ぎ、音が聞こえなくなるまで佇んでやがてああ、と息をついた。


「すごかったな、なんだありゃ」
「だからこれに書いてあった通りだよ」
ギンコが巻物を手にそう言うので化野はああとうなずく。
「神って、あんな感じなんだな」
鳥肌が立った、俺の存在なんか小さいなぁと化野が笑うと、ギンコはまぁなと笑う。
「自然やあいつらに敵おうなんて思っちゃいないさ」
「……あいつら?」
化野が目を瞬かせる。あいつらっていったいなんだと思って首を傾げていると、ギンコはああとうなずいた。
「今見ていたアレな」
「うん」
「ありゃ、ウソだ」
「は?」
聞き返す化野ににこりと笑って、ギンコは言った。

「全部巻物に取り付いた蟲が見せた、幻だ」

化野は驚いたように目を丸く大きく開くと、また首を傾げてえ?と問い返してくる。ギンコは大丈夫かと言いながら化野の頭をぺしぺしと叩いてやった。蟲?とつぶやいてそこでようやく、化野は大きく息を吸う。
「ええーっ!?」
「遅ぇな」
呆れたように言われながらも化野はそんな、とつぶやく。あれは巻物に取り付き、それを「呼んだ」人にだけ幻を見せる蟲なのだ。その人が読み上げた光景を見せるだけの、蟲。だからあれは、ふたりにしか見えていなかった。
ただ、そのあとなぜか雨が降ることが多かったので、「雨を呼ぶ巻物」といういわれがついたのだろう、おそらくそれは偶然だったのだとは思うが。
「まさかお前も幻、とかじゃないだろうな」
つないだ手を握り締めて言うとギンコは巻物を化野に渡し、空いた片手で新たに煙草を取り出し銜えて火をつけ、化野を見る。いつの間にか煙草は切れていたらしい、確かにそのくらい長い時間をふたりで立ち尽くしていた。ギンコはふと小さく笑うとさぁな、と言った。
「なんなら、試してみるか?」
そう言っていたずらっぽく笑うので、化野は返事もせずに目の前のギンコの唇に吸い付く。煙草をあわてて離し、それでもギンコは逃げずにそれを受けた。
「帰って試すか?」
「……ああ、朝までな」
口付けの合間にそう囁きあって、ギンコはだろうなと言って笑った。つないだ手はなんとなく惜しかったので離さなかった。






「男が話したことは、結局幻だったのか」
布団の中で火照った体を冷やしながら化野が言った。同じように汗をかいているギンコはああとうなずく。
「まぁ見えない人間もいるからな、読んだとしてもそれを思い浮かべるだけの想像力もないとあれは見えないらしい」
「かなり条件がいるんだな」
「売りに来たあの男はそれもなかったし、手放した持ち主もきっとそうだったんだろう」
まがい物だとなれば値なんてないに等しいものだ、だから遠慮なく値切れたのだとギンコは話した。でも、と化野は言った。
「お前と見れてよかった」
「…まぁな」
それでも化野ならいつか一人で見られるだろうとは思った。彼が想像力豊かだと知っているから。布団に寝転がったまま、化野はああそうだと声を出す。ギンコが隣でそれを見た。



「お前の声であの文が聞けるとは。もう一度読んでくれないか」
「アホか、また呼んじまうだろ、二度も見たくねぇ」
あんな体感はこりごりだ、そうつぶやくギンコの上に乗り上げると化野はギンコの腹をなでた。びくりと体が反応する。
「あれは想像しないとダメなんだろ」
「ああ、でも……」
そんなのは難しいと話すギンコに微笑んで、化野は急にギンコの胸にしゃぶりついた。小さく悲鳴が上がる。
「読んでくれ」
「巻物を…、」
下から逃げようとする体を引き寄せて、化野は首筋に噛み付く。
「覚えてるだろ、お前なら」
「う…、おい…」
「さぁ」
そりゃああの程度の短い文章ならば、一度読めば覚えはするが。しかしなんでそれを喘ぎながら唱えなければならないのか。ギンコはやめさせようとするが、愛撫を受けていると次第に快楽の続きをして欲しくなった。わかったとつぶやいて、愛撫される合間に口を開く。
「……薄黒い雨雲遠くにあ、…りて、」
「うん」
「遠雷…近、づき龍となる」
胸から腹をなでられてびくりと体を震わせる。化野を見ると笑う顔が見えて、なにが嬉しいんだと心の中でぼやいた。
「空響く、風の音に声…あ、…を、聞け」
「考えられんだろう?」
そりゃ確かにな、と思うが快楽のせいでそれを言えず、ギンコは小さく舌打ちをする。突然中心をなでられてびくりと体が跳ねた。じわじわと痺れるような感覚が腰辺りに響く。
「稲光にそ、の、神々を、」
「いいなぁ、やっぱり」
ちゅ、と優しい口付けが下りてきてギンコはどこがだと思う。しかしあと一文で終わりだ、必死に快楽に流されそうなのを我慢して口を開く。
「とど…く落雷にい、かり、を」
「欲しいか?」
最後まで言ったにもかかわらず、化野はそう言った。ギンコが無言で足を蹴飛ばすとわかったスマンと謝ってギンコの両足にそっと、手のひらをかける。


「それじゃあ、朝まで」
そう言って幻でなく本物の、いとしい恋人を前に化野は笑う。下にあるギンコの体は少し揺らめき、そして目に安堵と共に欲を映した。かわいいなとつぶやくとまた足を蹴飛ばされたけれど、化野はとても幸せそうだった。





               おわり








「一から創作蟲」

作者コメントより
巻物と違う言葉をイメージしながら唱えたら、もちろん違うものが体感できるかと思います(笑)
ただ文字があったほうがイメージしやすいからこの蟲は巻物に取り付いているのかと・・・。


JIN・投稿

「薄黒い雨雲遠くにありて〜」の文&イラスト、影太朗様

08/06/01