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揺 り 焔



「ん、……何だ?」

 とある田舎宿の室内で、布団に寝そべり巻物を読んでいたギンコはフト顔を上げた。
 視線は枕元に置いてある行灯へ真っ直ぐ向けられる。
 それまで微動だにしなかった明かりが突然ユラリユラリとうねるように揺れ動きだしたからだった。
「風、ではないな…」
 起き上がり、軽く辺りを見回す。
 小さな宿部屋の窓は、日が落ちたのと同時に閉じていた。
 多少の隙間風は常に肌へ感じるものの、行灯の火を揺らすほどの勢いはない。
 ギンコは布団から出て、試しに小窓を開いた。
 深い森林に面した外は真っ暗で、月明かりも届かない。
 その暗闇から聞こえるのは、夜半過ぎて随分静かになった虫の音と、時折葉の擦れ合う音のみだった。
 窓を開けても風と呼べるほどの空気の流れは感じない。
「………」
 窓から室内へ視線を戻す。
 行灯の火は変わらず揺れ続けていた。
「こりゃまた…随分奇妙なことだな」
 揺れる炎はせわしなく影を揺らし、まるで躍っているかのように見える。
 この行灯に火を灯した時は何もなかった。何かに気付く気配もなければ、火を灯すことに気を留めることすらなかった。
「どうしたもんかねぇ」
 ギンコは呑気な口調で新しい蟲煙草を咥える。
 咥えただけで火を点けずに行灯をしばらく眺めていたが、
「――そういやここら一帯は、鬼火で有名な里だったな」
 何かに気付いたような独り言を続け、窓を閉めた。
 部屋の隅に置いていた木箱を引き寄せ、引き出しのひとつから別の巻物を取り出し、傍らに広げる。
 そして行灯の前へ座って注意深くゆっくり笠を抜き取り、中の炎を覗き見た。
「やはりお前か…」
 そこには、普通の火とは明らかに違うモノがあった。
 油に漬けた芯の先で揺れる火は青白く、すうっと先細りに灯っている。その細い先が波打って揺らめき続けていた。
 ギンコは口元に薄く笑みを浮かべ、手元の巻物を見下ろした。
 『揺り焔』という字の上に指を乗せる。
「まさかこんな近くで見ることができるとはな…」
 文章をなぞりながら、ギンコは声に出して読み始めた。
「――この蟲の見分け方は、風のない室内で行灯の火が激しく揺れ動き、止むことのない時。青白く細長い炎が特徴である。普段は切り立った山間や谷に生息し、時折風に乗って里まで降りて来る。鬼火や狐火と間違えられることが多い。直接触れない限り害はなく、人に憑くこともない。本物の火ではない為、強風でも消えることはない――」
 そこまで読んだギンコは、火に向かってふっと息を吹きかけた。
 突然の風に消えそうなほど小さくなったが、すぐに元の大きさへ戻る。
 数回試しても結果は全て同じだった。
「なるほど……文献の通りだ」
 ギンコは感心した唸り声を低く伸ばした後、文章の続きを読み始めた。
「――この蟲は別名『千里の灯(ひ)』とも呼ばれ、時折遠くの土地を火中に映し出すことがある。その原因や理由は不明、か……」
 巻物から指を離し、火をじっと眺める。
「遠くの土地…」
 疑っている訳ではないが、にわかに信じ難いなと内心で続けた。
 文献にはそれ以上詳しく書かれていない。
 元よりこの蟲は、生態の謎がほとんど解き明かされていなかった。
 捕獲が困難であるという理由の他、人に害を与えない蟲という理由で、昔から研究対象にする蟲師は少なかった。
 ギンコもこの土地へは別の蟲を調査しに来ていた。
 揺り焔という名は知っていたが、もしかしたら運良く遠目に見ることができるかもしれないと、諦め半分の淡い期待しかなかった。
 まさかこれほど間近で見られるとは夢にも思っていなかった。
 予想外の幸運に恵まれたようだ。
「…本当に離れた場所が見えるのなら、俺にひとつ見せてくれんかね」
 胡座をかき直して青白く揺れる炎に集中する。
 どこでもいい、何か映し出してくれ、と内心願う。
「――――」
 どのくらいの時間が過ぎたのか、身動きひとつせずじっと眺めるギンコの目に、一際大きく揺れた炎の中、少しずつ青色以外のものが見えだした。
(ん…)
 最初は薄暗い霧のような霞みの後、徐々に形が浮き上がる。
 どこかの家、見覚えのある気がする室内だった。
 ぼやけていてはっきり見えない為よく分からない。
 だが、室内にひとつの人影があるのは分かった。
 手燭の明かりの元、机に向かって紙に筆を走らせているようだ。
 後ろ姿で顔は見えない。
「…………」
 その人物は黙々と書き続けていた。手紙のようだった。
 ひとしきり紙の端まで書き終えた後、筆を置いて一瞥する。
 そして紙を軽く振って墨を乾かし、小さく畳んでいく。文にしては随分小さく畳み続ける。
 その畳み方には、見覚えがあった。
(あ……)
 咄嗟に身体を引いたのと同時、炎の中の映像が消える。
 ギンコは慌てて覗き直したが、先ほどの光景はいくら待っても二度と映されることはなかった。
 やがて炎は前触れなく突然宙に浮いた。
「あ、オイ…!」
 ほんの少しだけ天井辺りでユラユラ揺れ留まった後、音もなく吸い込まれるように消えていった。
 手を伸ばすのが精一杯で、止める暇はなかった。
 ギンコはしばし天井を眺めていたが、完全に気配が消えたのを察すると、小さな溜め息を吐いて、咥えていた煙草に火を点けた。
「逃げられたか」
 苦い笑みを浮かべ、煙を吐く。
 真っ暗になった部屋の中、煙草の明かりだけが灯っていた。
(さっきのあれは――)
 宙を眺めながら、ぼんやり考える。
 まさか、という気持ちとやはり、という気持ちが交差していた。
 先ほどの見えた映像は、今にして確信がある。
(嘘みたいだな…)
 化野だった。
 見覚えあると思った部屋は、いつも寝泊りする部屋だった。
 ―――化野と共に。
「偶然…なのか」
 本当に千里眼なのか、心を読まれて何らかの幻覚を見せられたのか。
 ギンコには判断できなかった。
 ただひとつ、もし心を読まれたとしたならば、それは常に自分の奥底へ留めている”想い”を映し出されたということだった。
「……参ったな…」
 例え蟲相手でも、心を覗かれたのは非常に心地悪い、とギンコは再び溜め息を深く吐く。
 常に心にあるという、化野本人にすら明かしてない奥底を曝け出されたのは、頬が熱くなるほど照れ臭い。
「まぁ…とりあえず………『火を覗き見た者の心情を映し出すこともある』…というのを書き足しておくか」
 ギンコは熱くなりかけた頬を軽く叩いて小さく咳払いをし、行灯に火を灯した。
 灯した火は赤く、もう揺れ動かなかった。
 木箱から筆と硯を取り出して、広げたままの巻物に筆をつける。
「体験談ってのは…書かなくていいよな…」



 直後、木箱のウロがカタカタと鳴り、取り出した手紙を読んだギンコは苦い顔でまたさらに文献へ書き足すこととなった。

 『揺り焔が映し出すのは、紛れもない本物の千里眼である』という一文を。






END






「謎の蟲名一欄」より『揺り焔(ゆりほむら)』

しの様・投稿


08/06/01