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瑠璃出魚







妾(わらわ)は、歌を忘れ、波の色すらわすれたのだから、
その石はそなたが持っていくがよかろう。
なぜおれに。
さて、そなたはあれに似てもいない。じゃが、妾の形見を運ぶには
相応しいように思う。そなたはそれを、この地の
どこぞにでも投げれてくれればよいだろう。




─・・・じつのところ、その小宅は美々しく、女は若く恐ろしく奇麗で。
─日干しの旅人を惑わせ、憧れさせるには充分に?
──そうだ。
くすくす笑う医師の長く白い指が、なめらかな石の形を辿る。海辺の医家の寝間蚊帳は、あけ放した夏の青闇に
ほの白く、一陣の涼風をうけて水中のように四方にせめいだ。
鶏の卵ほどのその石は、ルリ色で、つるりとし、化野の手にしとりと沈み、とろけるようなおもてには小花のような
珊瑚の乳白の模様が隙なく眠っている。まんなかから二つぱっちりと割れた面は、合わせれば跡目もなく一つに
還るようだった。

─肌は透けるほど白く、澄んだ目は憂愁を含み、笑えば水気のしたたるようだった。酒は甘露のようでな。
─・・・フーン。
─嫉妬か?
──だ。




─で、この石は、ギンコ。
掛布の下で。・・ああ、、その女はこう言った。と、白髪をした蟲師は口を開いた。
─妾は遠方の海の人魚であった。・・・いまは、戻るふるさとも無いまま、寄るべない身を生かしている。

しなやかな重さの長い羅宇(らお)の吸口から、白煙をひとつ。ギンコの声は話を続ける。

見るがよい、その石の色は、その海の色じゃ。そして、かつてのこの心の色でもある。
そう女は長い床几の肘にもたれて言った。その傍らには、これもまるで唐国か胡国の絵のような帯をひいた、同じ
歳ほどのおそろしく可愛い侍女だ。

・・・妾は決して泣くことがなく、歌うこともない。なぜならな、その石は海中の息の緒であり、妾はそれにすすんで
人魚の心を喰わせたからじゃ。・・・だから、どのようなものも調べも、もう決して妾にひびくことがない。
それは、と蟲師は尋ねた。なぜだ?
そのとき蟲師の手のなかの石は、ひとつ冷たくなったようだった。
女はしずかに言う。
有るとき波間に歌う妾の姿を目にし、網で妾を捕らえて船に引き上げた男がいた。そして忽ち、大きな水の甕の、
あちらと、こちら側で、妾とその者は恋慕いあうようになった。

妾は歌を歌い、男はそれを聴く。
酒を交わし、ただ見合うだけ。だが、語る言の葉も、生きる場所も違えど、きっと心を通じて慕いあったのじゃ。
・・・しかし、船が陸を見ようという頃に、船は大嵐に襲われた。黒い竜巻に帆は砕け、船べりは引き裂かれて、船
はあわや海の藻屑になりかけた。そのときじゃ。男は妾に袋一つの金を与え、そして妾の甕を、船荷もろとも逆巻
く海に投げ捨てたのじゃ。船は波にもまれながら襤褸のように、遠く陸へ滑っていった。・・・その後は知らぬ。

こうして妾は心を失せさせた。そして、なまじ恋慕というものを知ったゆえに、もとの歌に戻ることもあたわぬ。
のう?蟲師とやら。これは不幸なことであろうか。
・・・おれは、分からんと答えたよ。
こうして人魚は、男のいるやもしれぬ地に上がり、山向こうに流れつき、このように金縷銀縷に無聊を慰み過ごす。
と。


─担がれたんじゃねえのか。
化野は首をかしげた。
─かもな。・・・館を出れば、渓谷を遠くまで埋める桃の花が、薫りのいい風に散ろうとしていたよ。
 だがな、化野。この話には続きがあるんだ。
─お聞きしましょう。

ギンコはまた言った。
─おれが担がれたのかどうか考えるのは、御前にまかせるよ。



2




石は、湿りのある日や、水気を吸ったときにその色を深くした。
ときおり、ルリの色が淡い紅にかたむくことがあってな、そのようなときは、石はとても冷たくなった。まるでその男を焦がれているようにも思えたよ。

女は、海中の息の緒に、心を喰わせたと言った。
だが、蟲師のなかにも、そのようなものを見たことがある者はもちろん、話を聞いた者すらいなかったよ。
そんなあるとき、南のほうの土地で、ある船乗りの男に会ったんだ。


ギンコは隻眼を遠くに向けた。
─そいつぁ、遠国の珍しいものを商い、幾度も船をだす大商人の人夫だった。

ホトトギスの夜鳴きがどこかできこえ、そして別の声が、それより遠くで応えた。
松の林は、藍の夜空に黒々と、しずかに海音をきいているだろう。やがて、またギンコの声が続けた。



その船乗りは汗を拭いもせず、しずかに言った。あたりには明るい南の葉が、金の陽光に輝いていた。
─この石の色は、ある女人を見つけた遠い色の海に似ています。

日に焼けた屈強な腕、ギンコから石を受け取り、男はしばしそれを声なく見つめてそう言った。そうしてやおら居住まいを正して、語りだした。



蟲師どの。夢と笑うだろうが、俺は人魚というものを見たことがあります。あれは男共の長い航海に熟んだ心の見せる波間の幻の獣ともいう、でもそうではないように思う。俺は、確かにそれを、いてもたまらずに捕らえ、甕に籠めたように思うのですから。
・・風雅など知らない俺のこと、俺は人魚の心を楽しませるすべを知らない。だが、船乗り仲間に笑われようとも、俺は甕の前に子供のように座り、その美しさに見惚れ、聞いたこともないほどに珍しい、不思議な精妙な歌に、ただ耳を傾けた。


しかし、あるとき、俺らの船は、気も保てぬような大嵐に巻き込まれました。実のところあまりに恐ろしい嵐だった。俺は船にすがりつき、身一つでどうにか陸に流れついたようだが、そのときに、人魚の甕を海に捨てたのだ。そう・・・その嵐では仲間のほとんどが、波の中に消えました。・・・だが、人魚であれば。

不意に、はらはらと船乗りの目から水がおちた。
涙を拭うこともせず、男はその石を、無精髭の伸びた頬にあてた。

人魚であれば、、無慈悲に荒れ狂う海であろうと、きっと生きることができようと。

やがて、男はまた言った。
─だがもう、それを伝えるすべもない。恥ずかしい話ですが、俺はあの人魚に焦がれていた。いや、今もこの身のほとんどは、日々を暮らしながら腑抜けのようだ。そう・・・この今ですら、愛しているのです。
途端だ。
石がかすかな、鋭い音を上げたのは。

ぱちんと二つに割れて、中から極楽浄土の気もかくやの薄紅のもやと、したたるほどの水気がたちのぼり、緑青(りょくしょう)色の魚鱗が鮮やかに閃いた。大きな、肉感的な魚尾に、裳裾のように長く尾びれをひいてな。
と思うまもなく、魚はひとつ宙の水気の中で身をひねり、口を開けるや男を頭から呑み込んだ。そうして、
男もろとも消えたのだ。
あとには、やわらかな、えもいわれぬ優しく美しい色のもやがただよっていた。




─と、そんな話だ。

・・・化野はルリ色の石の艶やかなおもてをしずかに辿る。なめらかに指に伝わる感触に、なにかすこしひいやりしたような気がした。
けれどこれが目にも鮮やかに、美しい霞と、大きな魚を吐くところを見たいと思った。


─で、どうする?先生。
─さーて。買おうか、買わまいか。
化野は、ことさら、しかめつらしい表情を作って、恋人が運んできたその美しい石を眺める。
─・・もしギンコが何かに化けたなら、よろこんで頭から呑まれましょう。

─け。
と、イミありげに、にこりと一つ笑う。
・・この話は終始が嘘で、ギンコにこそ、あれの後の夜話ついでに担がれたってこともありうる。


けれど、化野はその石を買った。








「謎の蟲名一欄」より『瑠璃出魚(るりいずうお)』

aka様・投稿


08/05/29