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酔 砂 夢


 心が震えるような、夢を見た。それは嬉しさによって肌を訪れる震えだった。

***

化野の里は特に蟲が多くて、蟲師として流れ着いたギンコは、何度か通った後、早々にそこを己自身の里と定めた。そこには蟲師が必要だったし、何より化野がそこに居るから。

「ギンコ!」

 と、化野が朝まだ早いうちからギンコを呼ぶ。ギンコは布団の中で寝返りを打ち、彼によって疲れ果てた体を、だるそうにゆっくりと起こす。

「ん…なんだ。また蟲か?」
「そうだ、浜の青左のとこの末の子が、どうやら様子がおかしいらしい。蟲かどうかは判らんが、左の中指だけが昨夜から動かんと」
「あぁ、そりゃ確かに蟲だ。すぐに治せる」
「そうか。よかった」

 化野は障子の向こうから覗かせた顔で、嬉しげににこりと笑い、傍らにあったらしい根菜をちらつかせて言った。

「なら、まだ朝も早くて悪いが、行って治してやってくれ。戻る頃には朝飯を作り終えてる」
「楽しみにしとくよ。…えーと、なんだ、おい。お前、どっか俺の女房みたいだな。大根振りながら笑ってそんなこと言うから」
「…女房ねぇ。それでもいいが、夜だけはそれに甘んじる気はないぞ」

 ギンコは思わず頬を染める。そんな彼の顔を見て、化野は今度はにやりと笑うのだ。悪戯っぽいやりとり。共に暮す日々は、まるで時間を区切られない永久の逢瀬。

「行ってくる」
「おう、青左によろしくな」

 だが、

 目覚めると、現実はあまりに冷たく凍えるような。ギンコの肌が真実の寒さに震えた。そうだ、化野とは、数日前に別れたのだ。蟲を寄せる体質になったことに気付いて、その時にはもう、里は人の命を脅かす蟲たちに蔓延られて、蟲払いをして助けたばかりの青左の末の子は、あっというまに冷たくなった。

 逃げるようにあの里を去る時、化野は項垂れたまま、別れを告げたギンコを引きとめもしなかった。ギンコは夜露に冷えた枕に顔を埋め、うぅ、と低く呻いて泣いた。

***

「うわっ、ギンコっっ!」

 呼び声…。これは幻聴か、それとも幸せだった数日前までの夢を見ているのか。そんなのはあまりに残酷だ。やめてくれ、許してくれ、これ以上、何を責める。俺が何をしたんだ…。

「ギンコ、おいっ、もう昼だぞ。しまったな、寝過ごしちまった。ぅぅぅ、青左んとこの嫁に、往診頼まれてたってぇのにっ。あ? なんだ、俺のせいか? ついついやり過ぎたしなぁ。大丈夫か? こっち向けよな」
「……夢…」
「ん? 何か言ったか?」
「どうせ、夢だろ」
「あ? 寝ぼけてんのか? まぁ、寝ててもいいけどな、どうせお前は昨夜来たばかりだ。あと三日四日はいられるんだろう。あぁあ、それにしても随分寝こけた。半日以上寝てたぞ。ん? なんだ、ここ、ざらざらしてないか?」

 化野の言葉を朦朧と聞いて、ギンコはいきなり飛び起きた。敷布についた手のひらには、確かにざらりと砂の感触。よくよく見れば、零れているその砂粒の色合いたるや様々で、灰と黒と茶と、それに僅かな金と銀、赤に青に緑。彼は今度こそ、本当に夢から覚めたのだ。


 酔砂夢…


 色の数だけ、とりどりの夢を、ほんの一瞬ずつ見させる蟲だ。いい夢を見させ、次に悪い夢を見させ、何度もそれを繰り返し、取り付いた人間の心を揺さぶって、その感情の落差を喰うという、酷くタチの悪い蟲。たったの二つの夢を見ただけで、化野に叩き起こされたのは酷く幸運なことだった。

 夢の中で幾度も幾度も、天地を行き来するような喜怒哀楽を味わわされ、一晩で気の触れるものもあると聞く。

 まだ幾分ぼんやりとしたまま、ギンコは化野の姿を見た。彼はバタバタと体を拭いて、着物を身に付け顔を洗い、髪を撫で付けて、医家の七つ道具の入った包みを小脇に、今にも出掛けていこうとしている。

「…どこ行くんだ?」
「あ? なんだ覚えてないのか? 昨夜言っただろう。青左の嫁がおめでたらしくて、それを確かめて欲しいと昨日言われたんだって。初めての子だもんで、とりあえずは俺から、色々と教えてやらんとな」

 言い捨てて、化野は駆け出していく。ギンコは身を起こし、化野の背中が見えなくなるまで、開いた障子の隙間から外を見ている。そうして彼が布団へと目を戻すと、指先に触れた砂は、どの粒もみんなただの砂色になっているのだ。

 とり付いた相手が夢から醒めれば、一握りに群れていた酔砂夢は、ただの砂になって自然の中にかえっていく。


「あぁ、充分…すぎるな…」

 ギンコは不意にぽつりと呟いた。片時も離れず、この里のこの家で化野と暮す。それはあまりに甘美な夢だったけれど、幸せ過ぎて、何もかもが溶けてしまいそうで、少し怖くもあったのだ。
 
 だから、今のこのままで、充分。
 出会えて、時折会いに来れて、傍で過ごして。
 それでいい。それだけでいいのだ。

 幸せだ。

 微笑んで、ギンコは敷き布を縁側から外に向けて広げ、砂粒をすべて風に飛ばす。それから彼は、化野の匂いのする布団に、酷く満足そうな顔をしながら、もう一度身を沈めるのだった。






「謎の蟲名一覧」より『酔砂夢(よいさむ)』

作者コメントより
これ珍しい蟲ですよ。ただの砂になるということは、この蟲、骸を残してるー。
亡骸を残す蟲。気付いたらそうなっていました。たまにはそういう蟲もいるよね、と思いつつ。笑。でも酔砂夢はそのまま、ただの砂に戻るので、安心です!

惑い星・投稿


08/05/16