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花 々 扇



 体が疼く。


 それは、堪えようとしても堪えられない、体の内からの悲鳴であった。
「っあ…」
 あだしの、と何度も呼びそうになる。その度に唇を噛み指を噛み、堪えていた。それでも遠慮もなく突き上げられる振動は快感に変わって狂わせる。

 あだしの、あだしの。

 何度も何度も繰り返す叫び。
 胸のうちを駆け巡るそれは、喜びでもあり痛みでもあった。ただ、この快感に任せて名を呼べたらどれほど楽になるだろう。
 今このときだけでも化野に抱かれていると思い込み、名を呼ぶことができたなら。
「ひっ、…ぁ」
 奥を突かれ揺さぶられて、ギンコは強く目を閉じた。
 背中を突き上げる感覚に眩暈がする。息が止まる。それでも、この相手は望む人ではないから。
 ギンコは奥歯を噛んで、見知らぬ男の精を受けた。





「くそ、消えねぇ」
 それが擦っても擦っても消える種類の痣ではないことは、百も承知しているはずだった。
 首筋にできた花模様の、薄紅の痣。

 薄い紅と濃い紅が幾重にも重なっているように見えるそれは、明らかに蟲の仕業であった。ヒトの体に寄生し、ヒトを狂わせ思いを遂げるまで離れることなく住まい続ける。
女たちが、まるで艶やかな扇を広げるかのように足を広げ男を誘ったことからついたその名は

 花々扇。

 着物の裾を広げる隠語をもじって名づけられた蟲は、その昔、花街で広く伝染し駆逐された生き残りであった。
 尤も駆逐されたのは表向きの話だけで、密かに利用し楽しもうとする輩が後を絶たぬのは公然の秘密でもあったのだろうが。
「くそっ」
 ギンコは何に苛立つのかも分からぬままに、隣でいびきをかいて満足そうに寝る男の背を蹴飛ばして、宿を発った。





 ぞくりぞくりと背筋を何かが駆け抜ける。背が粟立ち、爪の先まで痺れが走るのを息を止めることでやり過ごし、また旅を続ける。

 堪えられず、何度か男に抱かれた。

 それでも収まることを知らない疼きは、文献で見た通りのやっかいな代物で。少しずつ少しずつ歩を進めて、山を越え谷を渡り、やっと見知った海辺の風景に辿り着いたときには心底ほっとした。

 それでなくても旅は疲れる。
 旅慣れているとは言え、暖かい寝床と帰りを待っていてくれる人のいる場所がどれほどありがたいものか。当たり前のようにそれぞれの家路につく人々には分かるまい。

「ギンコ!」

 遠く、足を引きずるようにして歩く姿を目ざとく見つけたのだろう。海の匂いのする声がした。
 薄い草履が、小石の多い小道を踏みしめて駆けて来る。少し色あせた着物の裾を乱して、ぼさぼさの髪のままで。

「ギンコ…!」

 息を切らせたまま抱きつく化野の体からは、薬を煎じてでもいたのだろうか。薬草の匂いが濃く立ち上った。少しむせるようなその匂いすら懐かしくて、会いたかったのだと眩暈がするほどに強く感じて。
 ギンコはその体に縋りつくように手を伸ばした。

 もう、体がいうことを利かぬ。

 化野に触れ、化野の匂いを嗅ぎ。それだけで達してしまいそうな自分に、可笑しさすら感じて。ギンコは ぎり、と首筋の痣に爪を立てた。

「どうした?」

 ふらつく足取りに、いつもと違う調子に、どこか具合が悪いのかと思ったのだろう。抱えるように家の中に連れ込まれた。

「痛むところでも…」

 言いかけた言葉を無視して唇を塞ぎ、暖かい舌を弄る。歯列をなぞり、舌を絡め、背中に回された手の感触に酔って。
 ぞくりと、這い上がる狂喜が舌なめずりして次の愛撫を待つ。
 ぞくりぞくりと。
 痣が疼く。
 堪らず化野の首筋に摺りついて、短い息を吐く。もっと、もっとと急かすギンコに応えながら、化野もまた、花の虜になっていく。


 奥まで突かれ、仰け反る首筋の痣を強く吸われ。目の端が濡れているのにさえ気づかずに思うさま喘ぐ。
 ここに来るまでに何度も味わった感覚だけれど、どうしてかそれとは比べ物にならないほど良くて。
 首筋が熱い。全身がぐずぐずと融けていきそうに熱い。

「…っあだしの…」

 言葉に出して、初めて知る。その名をどれほど呼びたかったか。どれほど触れたかったか。
「化野…っ、あだしの…」
 思うようにならない息の下で、繰り返し繰り返し名を呼んだ。
 それでも足りず、まだ足りず。名を呼んで火照った肩にかじりつけば、切なそうに愛しそうに、少し細めた目で覗き込まれた。
 背筋に振動が。深く、強く。
 あだしの。あだしの。
 うわごとのように呼ぶ声と、爪の先まで痺れる快楽に。堪らずに仰け反った首筋に咲く痣が、ひときわ色を増したように見えた瞬間。

 しゅるりと、色が抜けた。

 情欲にぼやける視界の隅をかすめるように、首筋から抜けた紅はゆるりと弧を描いて、暗い屋根に触れて消えた。
「ギンコ…」
 同時に達した抜け殻のような体を強く抱きしめられ、思わず首筋に手をやれば。もうそこには何もなく、なにも住んではおらず、ただ名残のように皮膚が熱くひりりと焼けるばかりだった。



 ああ、出て行ったのだと知った。今度は誰の熱を吸いに行ったのか。
 身近な奴じゃねぇといいが。
 思いながら、虚脱した腕をゆるりと、化野の背にまわして抱いた。





  終





「謎の蟲名一覧」より『花々扇(かかおうぎ)』

ゆの様・投稿

08/05/10