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天 荒 波


1

 
 急がないと、大変だよ。
 追いつかれちまうよ。
 早く早く、早くったら、その鶏つかまえて。
 表の畑の方はもう仕方ないから。
 大事にしてた庭の鉢だけは、全部家ん中へ運んどくれ。
 あぁ、もうこんな時間だよ、日が暮れる。

 暮れたら空に、

 穴が開く。


 ギンコは化野の里に足を踏み入れて、それから化野の家までの短い道のりで、そういう言葉を山ほど聞いた。広い畑と畑の間を駆け抜ける里人。洗濯物を腕にたくし込んで、慌てている女。舟を波から引き上げ、それから砂浜に、足跡乱していく漁師。
 鶏を追う子供の後ろに、別の大きな鶏を抱えた化野の姿を見て、ギンコは呆気に取られた。

「何してんだ、お前」
「…あぁ、よく来たな、ギンコ。いや、ここはもう済むから、俺の家の方手伝ってくれ。井戸に蓋をせにゃならんし、雨戸も早めに立てて、それから、ええと、庭の薬草の畑も、何かで被っとかないと」
「だから何」
「おやま、ギンコさん知らないのかい? ならこの里に来ててよかったよ。今夜は空が裂けるんだ。星が天を横切って、夜の間、空には穴が開くんだから、大事なもの全部隠して、朝まで家から出ちゃ駄目だよ」
「だから何」

 ギンコは二度も同じ言葉を言い、化野に目配せをされてしまった。黙って頷いとけ、と言いたいらしい。化野は鶏をその家の柵へ放した後、ギンコと並んで、急ぎ足に坂を上った。
 それから二人で井戸に蓋。畑に被い。鉢植えを土間へと運び入れ、雨戸を立て、そうして二人、夕暮れの残り色を眺めながら、ぽつりぽつりと話しをする。

「迷信、だってことは、まぁ、俺は勿論、みんな判ってると思うぞ。ただ、昔からこの里で、ずうっとしてきたことだから、今更無し、って訳にいかんと言うか。つまりはあれだ、ちょっとした祭の一種だと思えばいいらしいな」
「空に穴ってのは」
「…流星が」
「あぁ、やはりか。三年ごとの流星群だもんなぁ、今夜は。それで天が空を横切って、その軌跡から夜空が裂けるってか」
 それでも里に何も起こらずに、毎回無事に済むのは、海神を祭る信心の賜物なのだとか。海が異変を静めてくれてるんだと。

 ギンコは蟲煙草の火を燻らして、静かな顔をして化野に言った。
「見せたいものがあって、その流星群を目指して来た。だが、この里の一員の化野先生は、海神に叛いたりしないで今夜は家にお篭りか…?」
「……俺は天邪鬼な里人だからなぁ。お前が星空を見ようと誘うんなら否とは言わんよ」

 縁側の冷えた床へと手を置いて、化野はほんの少しギンコへと身を近寄せた。ギンコはそれに気付いたというのに、横を向いて取り合わない。取り合わないが立ち上がりながら、偶然のように化野の肩先に触れた。

「否と言わんのなら妙な誘いはすんなよ。ここで俺が応じたら、朝まで家に篭ることになるだろうが」
「ああ、そう言やそうか。参ったな」
 馬鹿、と言ってギンコは化野の襟に手を掛け、乱暴な仕草で立ち上がらせる。空はもう暗い。藍と群青とに閉じられて、黒く樹影に縁取られ、星が流れ落ちるのを待つばかりだった。



2

「なるべく広く空が見渡せる場所がいい。それと海も」
「あぁ、なら北側の岬がいいだろう。あそこなら家もないし、誰にも見られないで行けそうだ」
 化野は秘密の匂いを嗅ぎ付けたらしく、ギンコの希望にぴったりで、しかも人に見られない場所を教える。きらきらと目を輝かせ、なんだ、何があるんだ、とギンコの目を覗き込んで聞いてきた。
「流星群だな。ま、その他にも色々だが、聞かずに見た方がきっと楽しめる。おい、もっと着た方がいいぞ。何時間か外にいることになるから」

 そうか、と頷いて、化野は羽織を着てきた。そして、いつもの上着を着ようとするギンコの肩にも、別の羽織をかけてやる。
「薬臭いな、これ」
「あ、すまんな。この間、夜っぴいて薬を作ってた時、それを朝まで羽織ってたもんだから。気になるか? 別のにしようか」
「いや、構わんよ。薬の匂いなら慣れてるしな」
 蟲絡みの場合だけとは言え、ギンコも人の体を診るのだから、少しは薬に慣れている。そういう意味かと思って化野は頷いたが、本当はそうではなくて、彼の肌に染み付いた匂いを、ギンコはいつも、一晩中嗅いで抱かれるからだ。

「しかし、お前の使う薬なら、熱冷ましとかそのくらいだろ。どうなんだ」
「ま、そんなとこかね」
 とかなんとか言いながら、二人は岬へのやや長い道のりを歩く。化野は片眼鏡をしていなかったが、ギンコがそれを聞くと、懐からちゃんと取り出し、抜かりはないさと笑って見せた。
「してないと変か?」
「いや、別に。してない顔だって見慣れてる」
「ふぅん、そうか? そん時は大抵お前、目ぇ閉じてるだろ」

 今度は化野にも意味が判ったらしい。片眼鏡をしていない化野は、大抵がギンコと一緒に布団の中。ギンコは目を閉じて、愛撫を受けている事の方が確かに多い。でも明け方前、先に目を覚ましたギンコが、眠っている化野の顔をじっと眺めていることなど、彼は知らないだろう。

「なんで今してないんだ」
「こんな夜道じゃ落としたら見つけられん、だから目的の場所まではずしていく」
「なるほど」
 裸眼の化野はギンコを見て、特に意味もないのににこりと笑う。直視はせずにギンコが目を逸らした頃、二人は岬へ辿り着いていた。


「まだかな、流星群は」
「…そろそろだと思うが、そこらに座って、少し待とう」

 足を止めると夜気が肌に冷たい。ボタンを留めていないギンコの襟元、そして裾から出ている化野の足。誰か一人を間に入れられそうにあいていた距離を、化野はものも言わずにもそり、と詰めた。肩が触れる。それから首筋に、化野の唇が触れてくる。

「…おい。流星を見落とすぞ」
「お前が見ていて、その時は俺に教えてくれ」
「お前な。…ぁ…あ…」

 襟の中に手を入れられる。肌をなぞり、鎖骨にそって撫でられ、咎める間もなく押し倒された。硬い土に当たった背中の痛みは、もう一方の手で脇腹を撫でられた途端に忘れる。
 腹を、胸を剥き出しにされ、敏感な場所を撫でられ、吸われ、知らずに固く目を閉じている。こんなんで星を見ていて教えろとは、化野も随分と勝手を言うものだ。

「こら…っ、離れろ。今っ、一つ目が流れた。どんどん来るぞ」
「なんだ、もうか。待ってくれりゃいいのに」
 訳の判らない我が侭を言いながら、それでも化野はギンコの隣に並んで仰向けになり、流れる星を眺めた。捲られたシャツを自分で戻しつつ、ギンコも星々を眺めている。
 星の、白い軌跡が無数に。いくつもいくつも斜めに横切って。一つ目の残像のように次が、さらに次も、その次も。同じく空に傷をつけるように、似たような場所を何度も何度も。あぁ、確かにこりゃぁ、そのうち空が裂けそうだ。
 
「凄いな。いくつ流れるんだ…?」
「さぁ、なぁ。百とも三百とも。ここは空気が澄んでいるから、よく見える」

 … これに願えば 叶うのかな …

 心の奥で、二人は同時に思っていたが、何も言わずに心に秘めたまま、星の流れが消えるまで、それぞれの願いを何度も呟いた。多分それは似たような願い。言葉にはしないでおこうと、二人がずっと思っている望み。

「化野」
「ん?」
「これからいいものが見られるぞ。天荒波がこの里を選んだからな。迷信とやらによって、ここじゃあ今夜は誰も空を見上げたりなぞせんのだろ。だから選ばれたんだろうから、こっそり見ろよ」
「こっそりって…。なんなんだ、そのアマアラナミってのは」
「…くるぞ。まず海だ。見えるか?」
「あ、待て、片眼鏡を…。う…わ…」

 付け忘れていた片眼鏡を、慌てて取り出して片目に宛がい、そうして海原を見た途端。化野は驚いて言葉を失った。

 今夜は三日月だったから、元々海面なぞ良くは見えないのだが、それでも判る。たった今、ここから見える海には、波が…無い。ゆらと一つの揺れもせず、まるで目渡す限りの広い広い沼か、風の無い湖を見るようだ。
 空と海に一つずつの月がある。ついさっき、終わったと思えた流星の残りが一つ、空を斜めに横切ると、まるで鏡に映したようにはっきりと、それが海にも映るのだ。

「凄い…。これが…アマアラナミ…」
「いや、これはただの予兆だ。星を流し、海を静まらせ、それから空一面を平らに均して、天荒波が来るんだ。忙しいだろうが、今度は海と空、両方を見ろ。あの遠い空から、やってくるから」
「……遠い空から? おぉ…」

 化野は無意識に身を起こし、目を見開いてそれを見た。天荒波というその名前の由来が、この瞬間にわかった。それは、見える限りの空と海を覆う、怖い程の光景なのだった。



3


 それは雲。いや、それとも空にある波、なのだろうか。西の空からまずはゆっくり、それから勢い上げて速く、絹雲が流れてくる。それが見る見る形になって鱗雲になって、途切れずに次々に流れ来て…。
 まるで、空一面に海があるようだ。そうしてその光景は動きの無い海へ、鏡のようにはっきりと映っていて、空と海の両方を、雲たちが激しい波のように流れている。

「う、わぁ…っ…」
「どうした、化野、しっかりしろ。別に飲み込まれやせん」
 いつしか立ち上がって海と空とを凝視していた化野だったが、まるでその身一つ、あっさりと飲み込まれていく気がして、彼は青ざめて後ずさっていたのだ。

「天荒波には、別の名もある。うなぐも、というのと…もう一つは…」
 言いかけてギンコは黙り込み、化野の腕をひっぱって自分の傍らに座らせる。身を寄せ、唇に唇を押し付け、彼の心臓の上に手を置いて、ゆっくり優しく撫でてやり、彼はそっと呟いて聞かせた。
「化野…。大丈夫だ。何も怖いことなんか起こらない。ここに俺がいるんだし、俺の傍に、いつもお前は居てくれるだろ」
「あ、あぁ…そうか。そうだな、大丈夫だ…。それにしても…すごい…。凄い光景だ、綺麗だ…」

 今度は化野の方から、ギンコの唇を、ちゅ、と軽く吸って、幾分強張った顔のままで少し笑って見せる。そうするうちに、空の波は消え、いつしか海にはいつもの波が戻ってきて、化野の目にすべてはいつも通りの景色に戻っていったのだ。

 深く吐息して化野は聞いた。

「…終り、か……」
「あぁ、まぁ…そうかな。お前にとっては…」
「ん? どういう意味だ」
「ここから先は、お前には見えん。蟲が見えるものにしか見えないんだ。…先に帰ってていいぞ。随分体も冷えただろ。俺は見ていく…」
 それを聞くと、化野は眉間にシワを寄せ、怒った様子でギンコの体を自分へ引き寄せる。痛いほど抱いて押し倒し、ギンコの首筋を吸って跡を付け、シャツを捲り上げて肌を撫でる。

「見えんでもいい。傍にいる」
「ん…。い、いるのはいいが、手ぇ…よせ。ぁ…」
 指先で文字を書くように、ゆっくりと撫でられ、ギンコは思わず首を反らす。首を反らして見た空には、西からゆるゆると、金の流れがやってくるのだ。一つ一つ、小さく金色に光る粒たちの大河は、地下を流れている光脈と酷似していて、それらが音も無く空を往く。

 見開いた目を、少しばかり潤ませて、懐かしむように、淋しそうに、切なそうに、ギンコは黙って空を見ていた。化野はそんな彼の様子に気付き、愛撫の手を止めて、心配そうにじっと彼の表情を眺める。

 なに を 見てる ?

 言葉でなく、心で化野が聞くと、それが聞こえたように、ギンコは、ふ、と微かに目元で笑って答えた。
「命の、流れだ」
「…それは、いつか話してくれた光脈、とかいうやつか」
「違う。いや、違わんかもしれん。…判らないんだ。誰にも」

 蜃気楼が、遠くの大地の姿を、波の上におぼろに映すように…。これは何処かの地下深く、流れている光脈の姿なのかもしれない。それがどこかの捻れた空間で、どうしてかここと繋がって、空にそれが映るのかもしれない。そうでないのかも知れない。

 見たい なぁ …

 また化野が声にもせずに言う。ギンコは化野の頭を、静かに胸の上で抱いて、彼の髪を指ですくようにしていた。その指は震えていて、彼の鼓動も震えるようで、胸を通して、いつもよりも深くて篭った声が言う。
「目を閉じろ、化野。俺の心を通して、見ている気になれ」
「…そんな無茶……」
 化野は言い掛けたが、ギンコは構わずに、小さく静かに呟いた。


 見ろ、金の流れだ。
 ひとつひとつの光は小さくて、
 目を凝らせばそれが全て、生きているのだと判る。
 ごぉ…と永遠の音がするんだ。
 命の、音だよ…。
 きっと、俺も、お前も、昔は一緒にあそこに居た。
 そうしてきっと、隣り合って離れずに流れて居たんだ。

 なぁ
 …見える…だろう…?


「…うん」

 本当に、見える気がして化野は言った。ごぉ、ごぉ…、と遠く轟く風のような音は、ギンコの心臓の鼓動だったのかもしれないが、それもまた同じく命の音。ギンコの命もまた、きっと美しい金色をしているのだろう。自分のもそうだろうか。
「見えるよ、綺麗だな…。怖いくらいだ」

 気付けばギンコは涙を流している。その涙の雫ひとつずつに、金の光が宿って見えて、化野は思わず目を凝らした。頬を伝って土に落ちたひとすじも、目尻から髪の中へと染みていったひとすじも、すぐに消えて見えなくなった。

 ギンコは「命」を愛しているのだな、と化野は思った。



「なぁ? ギンコ」
「んん?」
 並んで化野の家へと歩きながら、化野は聞いた。
「アマアラナミ、うなぐも…。そうしてもう一つの呼び名は何だ」
「……聞いてたのか」
 
 意外そうに眉を上げ、ギンコは軽く肩を竦める。暫くは返事をせず、余所を向いてはぐらかすふうだったが、あんまり化野がその横顔ばかり凝視して、二度も石に躓くので、呆れた顔して彼は教えた。
「天の光脈…っていうんだ」
 金の流れはお前には見えないから、これを教えてもなぁ、とギンコは苦笑する。天荒波も、海雲も、その金色がくる前の現象に付いた名だが、残り一つのその名だけが、金の川を指している。
「いいや見えた」
 見えたぞ、ちゃんと。化野はそう言って、またも裸眼の目でギンコを見つめて笑った。
「光脈。あれが…お前と俺の、居た場所か…」

 化野は酷く満足そうだったから、水を差さずにギンコは黙っていた。そんな彼もまた、随分と幸せそうに微笑んでいるのだが、自分ではちっとも気付いていない。

「な? 朝まではまだ間があるな、ギンコ」
「あぁ、そうだな」
「しよう、か」
「……ん」

 ギンコはちらりと化野を見て、あんまり真っ直ぐなその誘いに、目を逸らしながらも、はっきりと頷いた。化野は今度は子供のように無邪気に笑い、にこにこ、にこにこと笑顔でギンコの顔を見ていて、また石に躓いた。
 家について草履を脱いだ足の親指には、石で切ったらしい小さな切り傷があったのだった。


 そうして、ギンコは数日後には去っていき、足の親指の傷が消えてしまうまでの数日間、そこ見ると、化野はこの夜の事を思い出し、ぼんやりと天井を見たり、下を見て畳に視線を落としていたりする。あの夜から、たびたびそうして放心している化野を、里の一番の年かさの老人などは、酷く気にした。


 ほうら、だから、昔っから星流れの夜は
 大事な大事なもんは、みぃんな隠しとかにゃと言っとるが。
 星たちが、こがねの川んなって、
 それに乗せられて流されて、人が消えた言い伝えもあるに。
 里にただ一人の医家先生が、戻らなくなったらえらいこったろ。

 千日経った次の星流れには、先生にも被いをせにゃよ。

 あぁ、あぁ、心配なら嫁御にも、幼い子にも被いをな。
 なんなら里ごと被ったらいいが、それは無理かね、さすがにの。

 
 聞いて化野は目を丸くして、こがねの川か、そうか、と言ってまた天井を見上げたのだった。







「謎の蟲名一覧」より天荒波(あまあらなみ)』

惑い星・投稿

08/05/04