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こいぶみ
それは所謂丑三つ時を、少し廻った頃だった。
平素であれば子の刻には夜具に入る化野だったが、その日は少々珍しい症例の患者を診た為に
調べ書き留める事が多く、気付けば後少しで夜明けという時刻に未だ文机に向かっていた。
ジリジリと削られる炎の白が掠れ始め、辺りを淡い光が覆い始めれば、もう夜明けが間近い。
冷たい空気が朝の訪れを伝え、化野は己が夜を徹してしまった事を知った。
それまで没頭していた書き物から顔を上げれば、室内に居るにも関わらず
辺りは早朝に特有の煙ぶるような白に包まれている。
「やれこれは、気付かなかったな。もう朝か。」
閉じられた障子からは朝の光は漏れ入るものの、本来であれば朝靄等は入らない筈。
だが何故か煙る室内に、しかし化野は徹夜で呆けた頭のせいか、その違和感に気付く事はできなかった。
軽いため息と共に僅かに呻いて伸びをする。
関節のパキパキと鳴る音が、どれだけ同じ体勢で居たのかを物語っていた。
軽く頭に右手を添え首をパキリと鳴らしながら、固くなってしまった全身をほぐす。
「あ〜失敗したな。もう少し早く切り上げるつもりだったんだが。」
年甲斐も無く徹夜してしまったと、一人ごちる。
これだからもう少し自己管理できるようになれと、まるで子どものように彼に叱られてしまうのだ。
ともかく今からでも睡眠を得ておこうと、化野は膝に手をついた。
賄いをしてくれている近隣の婆が来るまで後どれだけの刻があるか分からないが、
それまでに僅かでも体力を回復しておかなければ今日の仕事に障りがある。
固まった膝を伸ばし立ち上がりかけたが、その時僅かに眩暈に似た感覚を覚えた。
とっさに傍らの文机に手を付き体勢を立て直す。
「ん・・・と、立ち眩みか?」
何となく目の前が揺れ、足元が覚束ない感じがする。
だが、立ち眩みという程気分が悪い訳でもない。
多少目の回った感じはするが、俄かに上昇した体温と気持ちの高揚は、寧ろ酒に酔った時のようだ。
「心臓が、どくどく言っている。」
胸の鼓動まで激しく打つようになり、何だ急にと訝しく思う。
「風邪でもひいたか?」
朝特有の僅かな肌寒さは内から来る熱に掻き消され、くるくると回る視界はしかし何だか気持ちが良い。
妙に浮かれた気分になって、化野は立ち上がりかけた膝を落としもう1度座りなおした。
今度は文机を背もたれに、揺れる視界を楽しむ。
先ほどから煩い程に脈打つ心臓は留まる事を知らず、まるで想い人を目の前にした時のようで。
一度思い出してしまえば想いはどんどん溢れ出し、化野は目を瞑り恋しい人を思い浮かべた。
そういえば、あいつが最後にここを去ってから、もう随分経つじゃないか。
やけに月の明るい夜に、引き止めたい気持ちを隠しながら秘蔵の酒を出してやった。
縁側で2人腰を並べて、さしつさされつ。
静かな月の光がギンコの髪を淡く銀色に光らせて、本当に綺麗だった。
いやいや髪だけじゃない。
僅かに視線を逸らせる瞳も、まるで森林を映す水面のように潤んでいたし、
普段は真っ白い頬も淡い紅色に染まっていて可愛かった。
あまりに俺が不躾に見るからと眉をしかめて僅かに睨むのも、俺の視線を気にしているようで非常に良い。
膝に手を置けばギンコは必ずほんの少しだけ身構えるが、
それもギンコが色事に慣れていない事を物語るだけ。
ギンコから何がしかの行動を起こす事は稀だが、
例え俺の手がギンコの襟元を割っても逃げないで居てくれて、
寧ろ僅かにでもギンコから寄りかかって来てくれるのが嬉しい。
滑り込ませた掌に伝わるギンコの鼓動の高鳴りが常に無く早く、
ギンコの鼓動と俺の鼓動が共鳴して行くのが幸せだ。
幸せだから・・・・・・
「ギンコ・・・・・・・・・会いたいぞ。」
また会いたい。早く会いたい。
この腕に抱きしめて、その存在を感じたい。
今すぐ傍に来て欲しい。
恋しい気持ちを抱えたまま、化野はそのまま眠りについてしまった。
夜は白々と明けていった。
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『ギンコ・・・・・・・・・会いたいぞ。』
大分人里近い山の中、野宿を張っていたギンコの元に、何やら耳に馴染んだ声が届いたのは寅の刻の頃。
夢うつつに起き出したが、周囲に人の気配は無い。
気のせいかと再び夜具に潜り込もうとしたギンコだが、
自分のすぐ傍近くに漂う蟲に気付き急速に目が醒めるのを感じた。
と同時に全ての合点がいき、僅かに頬を朱色に染める。
四つ辻酔い。
丑四つ時に現れて、覚醒している獲物の脳に働きかけ酩酊に似た錯覚を起こさせる。
体温が上昇し心拍の早まった獲物は、それを恋と錯覚し乞い慕う者を思い起こす。
その想いの流れに乗って、四つ辻酔いは獲物の乞い慕う者の所まで飛ぶ蟲だ。
獲物の想いも引き連れて。
この時刻にこの蟲が自分の傍に居るという事は、誰かの想いを運んで来たという事。
こんな自分に想いを寄せるような物好きには生憎一人しか思い当たらず、先ほどの声音と相まって
ギンコは急速に熱が上がるのを感じた。
恥ずかしい、恥ずかしい。
「全く・・・・・・全く、あいつは。」
いつも臆面も無く気持ちを口にする化野に、ギンコは連れない返事を返して来た。
そんな己に自己嫌悪めいた物も感じていたが、まさか遠く離れたこの場所でもそんな思いをさせられるとは。
恥ずかしいというか、いたたまれないというか。
何だか腹が立つ気がするが、一度思い出してしまえば忘れる事もできず、
ギンコは手早く起き上がり荷物を纏め始めた。
会いたく、なったのだ。
認めたくは無いが。
潮の薫る漁村はまだ遠い。
今この時に思い出させるのは、いっそ酷な程に。
ギンコは未だ目の前を漂う蟲を少々恨めしげな目で見、珍しく多少忌々しげに呟いた。
「存外に酷い蟲だよ、お前は。」
そして足早に山を降りて行くのだった。
終
「謎の蟲名一覧」より『四つ辻酔い(よつつじよい)』
とき様・投稿
08/04/28