.
洞 の 鐘



 まだ、お嬢様のお生まれになる前、たまがお嬢様くらいの齢の頃の話です。

 老師に伴われて狩房文庫に入ったのは、たまが九つの時です。
 ご存知のように、禁種の蟲を封じた書物の納められている蔵々は別邸地下洞窟内に建てられています。その幾枝もに分岐した渡り廊下の先のひとつは、何もない小さな洞で行き止まりになっておるのです。その時たまが連れて行かれた洞には、小さな半鐘のような音が反響しておりました。


「現在の狩房家付の者も老齢となり、暇を請わねばならないのもそう遠い事ではない。後を継ぐ者として、お前達の中で最も才ある者を選ぶこととする」

 薬袋本家の蟲が見える女子と生まれた時に、たまの生涯は決っていた。そして分家からも二人の女子が選ばれ随行していた。

「見えるか? “洞の鐘” という此処だけに棲む蟲だ」

 学ばされた膨大の蟲に関する指南書の中にあった資料を頭の中で掘り起こす。その蟲の特徴、精緻に描かれ彩色された姿は、どのようだった?

「爺さま。山吹色の房のような蟲が見えます」
「私も。それに糸のようなものも見えます」

 分家の二人が先に答えた。たまの導き出した知識に依れば、干し大根が幾本も糸のようなもので竿に垂れ下がっているような図説に、鐘のような音を出し空中を浮遊する。とあったが、細かいことは解っていないのか、それ以上は記されていなかった。
 移動する鐘の音を追うように老師を含め皆の視線が動いていた。たまも音の行方を追い、必死で目を凝らしたがどうあっても蟲の姿を捉える事は出来なかった。
 どうして私には姿を目にすることができないのだろう。あの子達には見えて、私には見えない。それが、薬袋の家にあってどういう事を意味するのか判っている。悔し涙が溢れたが、受け入れなくてはならない。

「爺さま。たまには見えません」


 先導者を鵜呑みにせず判断し、有事には主であろうと御する豪胆さが求められる任には、たまが選ばれた。



「“洞の鐘” は、音だけで存在する蟲なのです。見ることも触れることもできぬ蟲です」

 くすっと淡幽が幼い肩を揺らした。

「法螺(ほら)吹きを見分ける蟲なのだな。指南書には嘘が記してあったということか」
「それは何とも申せません。正式には伝わっていないというだけでございます」

 過去も此れからも、姿を見る者が存在しないとは言い切れない。あれら蟲が、変化しないとも限らない。
 あれから、さらなる過酷な修練と半生を強いられる事となったが、こうして淡幽という筆記者の誕生にまみえた。絵空事のように見えても、永い時間の中で、たった4人とはいえど筆記者が出現したように、禁種の蟲も存在する。
 いつでも、たまの頭の中には、半鐘が鳴っている。狩房家付き蟲師は、薬袋たまが勤め。抜かりはしない。








「謎の蟲名一覧」より『洞の鐘(ほらのしょう)』

作者様コメントより
音を食う蟲がいるなら、音だけの蟲がいたらどうだろうと思いました。阿と吽の餌?


犬神 実様・投稿

08/04/28