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燭 隠 し




「もう行くのか」
寂しそうに告げたその言葉は、自身の心をすり減らして言っているように聞こえた。
「ああ、そろそろやばい」
それを聞いて男は組んでいた片方の手で、己の青い着物を握り締める。こめられた手の指が白く変わり、力の入れすぎだと気付くが言うことはできなかった。自分の周りに集まる淡く輝く蟲たちは、これ以上この地に留まることが危険だと示す。
「どうせまた来るだろ」
「……ホントは……いや、なんでもない」
飲み込まれた言葉はきっと自分に対しての足枷だろう、それを言わずにいてくれるのは彼もわかっているからだ。
それはどうすることもできない、逆らえないことなのだと。



晴れた日にギンコは川に入り、手ぬぐいを濡らしていた。その手ぬぐいも恋人である化野が持たせてくれたものだ、それを手でしぼり顔を拭く。冷たくて心地が良かった。
「よく考えりゃ、けっこうあいつから渡された物、あんなぁ」
手ぬぐいから始まり、食い物や水筒、それから何故か腹巻。とにかくなんでも渡してくるのでそれを貰っては、いる。
「腹巻はいらんがな」
それでも旅の助けになるものばかりだ。あと何かなかったっけ、と考えながら首を拭こうとしてシャツをめくり、とたんに顔が赤くなった。
───────そうだ、吸い付かれて痕を残されたことを、すっかり忘れていた。
「いらんモン残すなよな」
首筋を手で押さえて顔の赤いまま悪態をついた。残すなと言うのにお前は俺のものだと何度も噛み付かれ、吸い付かれて痕を残された。そして叱られながらも嬉しそうにその痕を見ているのだ、子どもが自分の物に名前を書いて喜んでいるのと一緒だ。
けれど、名前も痕もやがては消える。だからあの男は、それまでに早く来いと言う。そうしてまた、痕を残させてくれと言うのだ。


「さて、そろそろ行くか……」
痕ももうほとんど消え、よく見ないとわからないほどになっている。消える前に行かないとうるさくて仕方がないので、ギンコはそこに向かうことにしていた。川の中をザブザブと歩いて進む。
「いてっ」
ふと足の裏に痛みが走り、ギンコは片足を水の中から上げて足の裏をのぞく。しかし別に傷も見当たらない、ギンコは石でも踏んだかと川から上がった。足を拭いて靴を履き、荷を背負って歩く。道のりはまだ遠そうだった。






化野は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。眉間に皺を寄せ口をへの字に曲げて、はたから見ると人相が悪い、しかし本人はそんなことに構っていられないようだった。おかしいとつぶやいてはため息をつき、またおかしいとつぶやいてため息をつく、その繰り返しだ。
息をつくのをやめると、今度は腕組をしたままのそのそと移動を始める。どこに行くかと思えば玄関で、戸を開けては外をのぞき、誰もいないのにため息を吐くとまた戻ってさらに玄関へと引き返す、その繰り返しだった。
「ギンコ…」
小さくつぶやいてまた外へ目を向ける。そろそろ戻るはずの恋人が戻ってきていないだけのようだ、化野はおかしいとつぶやいてまた名を呼んだ。返答する者はいなかった。






たったひとつのことなのに、それはひどく大きな空白に思えた。
「クソ、どうなってやがる……」
手ぬぐいを片手にギンコは吐き出すように言う。道の途中で荷を下ろしそれに腰掛けて頭を抱える、もうかれこれ小一時間はそうやって悩んでいるのだ。
先日食べた物のこと、誰かと話した会話はもちろん、ずい分昔のことも思い出せる。あいにくそれ以前の記憶はなかったが、それ以降のことははっきりと覚えているのだ。
この手ぬぐいが誰かにもらったことも、荷の中に入っている食料もなぜだかある腹巻も、一人の人間にもらったものだ。けれどその人間が誰かが、わからない。顔、名前、そして男か女かも、だ。
ただひとつはっきりしているのは、その人間に対する自分の思いだ。ちりちりと小さく燻る炎のようなものがその人間に対してだけ、反応している気がする。
大切なヒトなのだろう、それはわかる。けれどそれを思い出そうとすればするほど、大きな闇が目隠しをするように覆いかぶさってくる。見たいのに見えない、名を呼びたいのに呼べない、焦らされるような事態にギンコはああもう、とつぶやいた。
「じっとしてたって仕方ねぇ」
立ち上がって荷の中に手ぬぐいを戻す。ふと目に留まった腹巻を引き出しから出した。手縫いらしいそれをしげしげと見つめ、ギンコはため息をつく。
「変な奴だな…」
人にやるのに腹巻を選ぶか、普通。それでもその変な奴を大切に思っているのは自分らしいので、それ以上言うのはやめて歩き出す。言っても自分で自分をけなすことになるからだ。
不ぞろいな針糸のあとは、慣れないながらも必死に縫ってくれたのがわかるから。はやく会いたいとギンコは思った。
そしてふと立ち止まる。自分はどこへ行こうとしているのか疑問に思ったからだ。辺りをしばらく見て回し、ギンコはある一本の道を見つめた、こっちだ、となぜか思えた。
わかりもしないし知りもしない、それでも心が、足がこっちだと言っている。ギンコは一度ため息をつくと手にした腹巻をポケットに突っ込み、それから煙草を取り出して火をつける。煙を吸い込んでそうして、その道へと足を踏み出した。






「そら、これできっと治るぞ。腹は大切にせにゃならん」
「ありがとう、せんせい」
小さな女の子は化野に手を伸ばし、小さな手で握手を求めてきた。化野は破顔してそれを丁寧に手に取り、慈しむように手のひらを重ねた。ばいばいと手を振る女の子に同じように振り返し、頭を下げている母親に笑顔で答える。小さな女の子は嬉しそうに自分の腹を指さし、はらまきーと母親に話している。
ギンコにやるためにと暇を見つけては縫っていたが、あるとき腹が弱い子どもにやったらえらく評判になった。喜ぶならばといくつか縫い上げ、腹を下した子に与えている。
あんなのでも喜んでもらえるなら、縫ってよかった。一番心配なあいつにつけてもらえているかはわからないが。
「どこにいる、ギンコ」
もう季節が変わる。化野は目を閉じるとただひと言をつぶやく、早く会いたいと、それだけを。






「それせんせいのはらまき?」
潮の香りのする里に踏み込んでから一番に出会った少女にいきなりそう問われてギンコは銜えていた煙草を落としかけた。小さな女の子に話しかけられるのはもちろん、腹巻を突っ込まれるとは思いもしなかったからだ。ポケットから顔を出している腹巻を手を入れて押し戻し、ギンコはまぁなと苦く笑った。そしてそこでやっとはたと気付き、あわてて女の子を見た。
「いま、なんて言った」
「それ、せんせいの?」
「先生、先生ってどんな……ああ、いい。先生がどこにいるか教えてくれるか?」
そう聞くと少女はしばらく考え、あっちと指をさした。見ると森の中に家が建っている。ギンコはお礼にと菓子をいくつか渡して別れを告げ、それから歩き出した。
どんな人間か知りたくて会いたくて仕方がなかったのに、前にするといささか尻込みをする、結構気が弱いなと笑いながらその家へと続く道を歩く。ふと波の音と緑の道に、そういえばここをよく通っていたことを思い出した。とにかく通い詰めているらしい、苦く笑ったときふと叫び声が聞こえて、前を見る。

「ギンコ……っ!!!」

黒いものがすごい速度で近づいてくる。驚きながらも求めていた人間だとわかり、小さくああと答えた。それはもやのようなもので、墨で黒く塗りつぶしたように見える。かろうじて人とわかる程度の形をしていた。
もやはぶつかってくるが、そこから何かを感じ取ることはできなかった。触れられる感触も姿も感じ取れない、許されているのは声だけのようだ。
「会いたかった…!」
しかし、その思いは声から感じ取ることができた。震えるような声は心からの言葉、そして、なにより自分の心がそう言っている。
「どうした…?」
様子がおかしいと気付いたらしい、ギンコは事情を説明しようとすると長くなりそうだからと家に入るように言われた。黒いもやに連れられて家に入るのは違和感があったが、家もよくなじんでいた場所だと分かりギンコは嬉しくなった。
茶を出されてそれをすすり、ギンコは話した。名前を忘れたこと、姿を見えないこと、声は聞けるが感触もないと話すと、もやは残念そうに息を吐いた。
「じゃあ、手は出せんのか」
「手……」
一瞬意味が分からずつぶやくが、分かるとそれは腑に落ちる。通い慣れた土地、大切に思う心などを見ても互いに伝え合っていて当然だろうと思えた。
「蟲のせいじゃないのか、それを調べれば……」
「いや、確かこの蟲は思い当たることにぶち当ると、それすらも回避するよう仕向けてくるはずだ。だから調べても同じことばかりを繰り返して埒が明かん」
「……俺のほうは感覚があるのになぁ」
細いもやが伸び、膝に来る。どうやら膝を撫でているらしい、こらと叱ってそれをはたくと、いて、と声を上げた。
「じゃあ思い出すまでここにいろ、もしかしたら蔵の中に手がかりがあるかも知れんし」
「ああ、じゃあそうさせてもらうが、その前に名前を……」
「思い出してくれ、そして呼んでくれ。お前の声で」
「……ああ」
うなずくともやはしばらく黙り、それからああとまた残念そうに息を吐いた。どうしたと聞くと「口付けもできん」と言い、我慢してたのにと小さくつぶやいた。ギンコは苦笑いをして、早速蔵を見せてくれと話す。もやは立ち上がり、こっちだと案内してくれた。
蔵の中で探すからと告げてそこにこもる。もやは手伝うと言ったが、これは自分の問題だからと断った。黒いものが出て行くのを見終えてからさてとと中をひっくり返し始める。なんとなく何かがありそうな気がした。



数日こもったが、なかなか見つけることができず、ギンコは息をついた。休憩しろと言われて戸へ目を向けると、相変わらずの黒いもやが茶を持って立っていた。
蔵の二階で、ギンコは申し訳程度しかない窓を背に、茶をすする。もやは階段の下のほうで腰をかけて嬉しそうにいろいろと話をするが、それは空元気に聞こえた。───────いまだにギンコはその男の名を呼べていないからだ。
「なぁ」
「…ん」
「したいか?」
「……したいけど、やらないぞ」
そうかとギンコはうなずき、黒いもやへと手を伸ばす。触れているはずなのにその感覚がない、それはとても怖いことに思えた。思い出せずにいる男との記憶、名前、そしてそれを思う自分の心。ないとわかるとひどく欲しくなる、悲しくて辛くなる。
「やばい、じゃあ俺は戻るぞ」
「何がやばいんだ」
もやは小さく笑うと、自分に触れているギンコの手をさす。ああ、お前には感覚があったんだったなとギンコが手を引っ込めると、それじゃあと笑って、その直後大きな声を上げた。ばたばたともがいているように見えて、ギンコは階段から落ちそうだとわかり、思わず声を上げてもやをつかもうとする。
そのままふたりはもつれ合って階段の下に転がり落ちた。





「……ギンコ、」
目を覚ますと、暗い蔵の中でギンコは仰向けに倒れていた。自分に乗りかかるようにして覗き込む男を見て、目を細める。窓から強い日の光が入り込み、男を後ろから照らしていた。顔がよく見えない。
「……だ、しの」
「呼んだか?」
「………呼んだ、待たせて悪かったな」
そう言うと男───────化野は、泣きそうで嬉しそうな顔をして、それからギンコの体に触れる。優しい触り方にギンコは薄く笑うと、もう一度焦がれていた名前を呼ぶ。
とっさに上げた呼び声と共に、すべては戻ってきた。思い出も記憶も名前も、そして彼を思う自分の心も。化野が何度も何度も優しく体を撫でるので、ギンコは小さく息を吐く。
「感じるか?」
「まあ感じるな、お前のやらしい手つきがな」
「気持ちいいか?」
「………ああ、」
気持ちいい。そう言って目を閉じると唇に口付けられた。抱きしめてくる腕に抱き返し、ようやく感じることができる体温に身を委ねた。外はまだ日は高いが、蔵の中はちょうどいい暗さだ、ふたりはただ抱き合い、相手を確かめるように肌を重ね続けた。



「燭隠し、という蟲だ」
家の中で巻物を広げ、ギンコは言った。化野はそれを興味深く読み、それからなるほどとうなずいた。たいがいは灯りにもやをかけて消す蟲だ。ただし対象は広く、月の明かりやかまどに燈る火など、とにかく宿主にとって明るいと思うものを覆い隠す。そして宿主がそれに気付き対処しようとすれば、それ自体にたどり着けなくなるよう、思考にも影響を与えるようだった。
「だけどなんで俺なんだ」
灯りなんてたくさんあるのにと話す化野にさぁなと言っておいて、ギンコはいつものように縁側で煙草を吸う。こうした当たり前のことも忘れることができるほど、蟲にえらく好かれていたのだなあと思った。
あのとき名を呼びたい一心が、蟲を離れさせたのだろう、化野の間抜けもときには役に立つなと笑った。

「まぁ、思い出してくれてよかった」
「俺はまあ、黒いもやも悪かないけど」
「やめてくれ、俺がまいっちまう」
お前に触れないのがどんなに辛いか、と心底震えている男を見て笑い、ギンコは頭をかいた。自分の、化野をどう思っているかという思いをむざむざ言葉に変えて突きつけられた気がしたのだ。




───────自分にとって、燭のようだ、と。




             おわり。




「謎の蟲名一覧」より『燭隠し(ともしびかくし)』


JIN・投稿

08/04/24