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往きつ灯す



 今夜は月が随分と明るい。だから、というわけではないが、ギンコは化野が往診で中々帰らない間、部屋に灯りもつけずに巻物へ視線を落としていた。明るかろうが暗かろうが、ギンコの碧の目には不自由はない。
 ことり、と音がして顔を上げれば、いつの間にか戻っていた化野が、ギンコの足元に行灯を置いて、火を入れるところだった。
「あぁ、戻ってたのか。気付かなかった」
「いや、さっき戻ったんだが、俺もあっちで今日の日誌をつけていたからな」
 ギンコがいる間、化野はギンコのことだけを。ギンコもここに居る間、化野のことだけを。
 本当はそうしたくとも、二人は互いに何も言わず、日々の生活の一部を変えない。恋しかった気持ち、またこうして会えた安堵に浮かれても、数日後の別れの痛みを乗り越えるためには、あまり溺れぬがいい、と判っているせいかもしれない。
 化野は雨戸を閉めに行って、そこで空を見上げて思い立ったのだろう。ギンコの前へと戻ってきて、月を見に出ないか、と彼を誘った。あぁ、と答えるギンコの傍らで、何故か行灯の灯りが消えている。
「ん? なんだ、消したのか? そりゃお前は見えるか知れんが、夜は灯りくらい点けとくもんだぞ」
 そう言って笑い、化野は今度はランプに火を入れて、ギンコの手を引いて立ち上がらせた。二人して外へ出ると、空で真円の月が酷く明るく、いらなかったんじゃないのか、と言ってギンコがランプを消そうとしたら、もう火は点いていない。化野が首を傾げる。
「…? 芯が湿ってたのかな。このランプ、最近使ってなかったし」
 月明かりは銀色。さっきまで点いていたランプの灯りはほんのりと橙色。月から離れた空に見える星は、白く光って見えたが、よく見るとうっすら赤いのや青いのまであって、月を見に出たはずが、二人で星の輝きをひとつずつ確かめていく。
「夜空を見るんなら、灯りはいらないけどな」
 と、不意に化野が言った。
「お前の顔がよく見えないから、やっぱりランプは点いてた方がよかったなぁ」
「…いい加減、見飽きないか?」
 呆れてギンコが言うと、化野は大真面目な顔をして、
「馬鹿を言え、こんな綺麗なもん、どうして見飽きなきゃならんのだ」
 と、そんなことを言ってギンコを戸惑わせた。綺麗か? 髪が? それとも目が? 別に自分のそんな姿を綺麗だなどとも思わないし、好きでもないけれど、化野がそう言うのなら、それはそれでなんとなく嬉しい。
 風が冷たくて、肌が冷えてきたので、二人は家へと戻ったのだが、すぐに部屋の中で化野がつけた灯りが、彼が戸締りをしにいっている間に、またしても、すぅ…と消えていきそうになる。
 ギンコはそれをじっと見ていて、何かに思い当たったように上着のポケットから蟲煙草を出して火を点け、その煙を行灯にふう、と吹きかけた。すると灯りは消えずに、元通りに明るく灯る。
 そういえば、化野は戸締りをしにいっただけの筈なのに、戻らないなと思って奥の部屋を見れば、いつの間にし終えたものか、しっかり布団が敷いてあって、ギンコはぽりぽりと頭を掻いた。

「ギンコ」
 化野が彼の名前を呼ぶ。ここへ来たのは昨夜で、昨日の夜も、だったのに、またなのかとギンコは思っている。だけれど足は勝手にそちらの方へ向いていて、俺もなぁ、と自分に呆れそうになった。肌にはまだ、昨夜の化野の指先の感触がある。その肌をまたなぞられるのかと思うと、嫌悪とは真逆の意味で鼓動が騒いだ。
「飽きないか」
 と一応言ってみると、今度は化野はやんわり笑って、お前は?と嫌なことを聞き返してくるのだ。偽りを言わない為に、ギンコは黙り込まねばならなくなってしまった。
 
 枕元には既に灯り。おいおい、と思いたくなるほど光が強い。腕を引っ張られて抱き止められ、そのまま押し倒されて頭が丁度枕の上へ。光が近くてまぶしいから、消せと言おうと口を開くが、ギンコがそれを言う前に、嫌だ、と化野は断言する。

 長い前髪を掻き上げられ、額と瞼の上に唇が触れる。そっと閉じた目の睫毛を舌先で撫でられれば、あんまり小さなその感触が、かえって大きな快楽になってギンコはぞくりと肌を震わせた。敷き布の上を指が滑って、縋るような仕草でそこに爪が刺さる。
 激しい愛撫は苦手だが、こういうのも苦手だ。この程度で感じて、何度も喘いでしまうその敏感さを、化野に知られるのが恥ずかしくて。せめてこんなに強いランプの光が無ければ、こんなに動揺せずにいられるだろうに。
「ん。なんだ、油切れか?」
 化野ががっかりしたように言うので、ギンコも遅れてそれに気付く。彼の願いを聞いたように、ランプの光がどんどん弱まり、見ている前で消えてしまったのだ。
 ギンコは心の奥で、くすり、と笑う。ありがたいことに『燭隠し』がいるらしい。まるで見えない誰かが悪戯するように、小さな灯りを消してゆく蟲だ。さっきそうしたように、蟲煙草の煙を吹きかければ逃げていくが、ギンコは今度は、それをする気がなかった。
「変だな。そんなに油は減ってなかったと思うんだがな」
 ぶつぶつと言いながら、化野はわざわざ起き上がって、台所へ残り火を取りに行く。鉄壷の中に入れた熾火を壷ごと持ってきて、消えたランプにもう一度火を入れた。けれども待っていたかのように、その火もまた見ている前で消えていく。
「芯が湿気てんのかな」
「…かもな。別に点けなくたって」
「嫌だ。せっかくお前の…」
 色っぽい姿を見たいのに、と続けられそうな声が、途中で止まって、化野は目の前にあるギンコの唇に吸い付いた。投げ出していた両腕で、ギンコが彼の首を引き寄せたのだ。
「…ん。…どうしたギンコ、珍しいぞ。俺は嬉しいがな」
「途中で止められりゃ、俺だってな」
 焦れることもあるんだぞ。続ける言葉の変わりに喉を反らす。気配を察し、願いどおりに化野の唇がそこを愛撫する。首筋を見せれば首筋を、脇腹をじかに撫でられ、胸を反らせばシャツが捲り上げられ、もう既に感じて尖った場所へと、愛しげに唇がかぶさる。
 灯す明かりは次々消えたが、肌に灯される熱は、一つ残らず消えずに燃えて、暗がりの中でギンコはゆっくりと乱れた。闇に守られ、今夜はどれだけ身を開こうと、見られていないのだと思い、快楽は倍増しになるようだった。
 化野は確かに、ギンコの姿を見られずにいたが、愛撫に溺れる声も吐息も、肌の上に弾ける汗も、もっと濃厚な滴りも、全部受け止めながら彼を抱いた。例え見えなくとも、脳裏に描かれるギンコの姿は、あまりにも扇情的で、化野を興奮させるのには充分過ぎたのだった。

 
 そうして翌朝、化野が目を覚ます前に、ギンコは布団から出てきて天井へ手を伸ばして、なにやら奇妙な行動をしている。何も無い場所で手のひらを泳がせ、何かを捕まえる仕草をし、やがてそれがうまく言ったと見え、大事そうに両手にそれを包んでいた。

 *** *** ***

 その夜は月が無い。曇っているのではないが、空には星だけがあって、つまりは新月の夜のこと。ギンコは岬の突端にいて、もう随分と遠く離れてしまった化野の里の方向を向き、木箱の中から竹の筒を取り出した。
 慎重に、大事そうにそれの蓋を開けると、中には小さな蟲が三匹だけ入っている。筒を斜めにして、手のひらに一匹を乗せると、透き通った雫のような形をしたその蟲は、ぼう…と淡い優しい光を湛え出す。

「これは、月を見に出た時の、あのランプの灯り…かな…」

 ギンコは少し背を丸め、大事そうに両方の手のひらで窪みを作り、吹いている冷たい風から光を守った。
 そう…。これはあの夜に、化野がランプに灯した光なのだ。燭隠しは満月の夜に灯された小さな灯りを、自分の中に取り込んで隠し、今度は新月の夜に、それをもう一度静かに灯してくれる、そういう蟲…。

 これが、化野の灯した光なのだ、と、ギンコは一人、それを見つめている。こうして彼の傍を離れて来てしまえば、そうなのだと思うだけで、ギンコはその灯りが愛しくて、大切だった。
 燭隠しは、今見ているものの他に、あと二つ。それを見るのは、また次の新月にしよう、とギンコは切なく思っている。竹筒の中で眠らせておけば、きっと次の新月の夜と、そのまた次の新月の夜に、また仄かな灯火をギンコに見せてくれるから。

 化野…。と。ギンコは小さな灯りへ向けて呟く。呟いて薄く微笑んで。そんなふうに彼が見ている前で、ゆっくりと…優しい光は霞んで、闇の中へと消えていった。










「謎の蟲名一覧」より『燭隠し(ともしびかくし)』

惑い星・投稿

08/04/25